ぶらぶら歩きたい

はやっているのかどうなのか知らないが、『モヤモヤさまぁ~ず』のテレ東的な「地方としての東京」という視点が大好きだったり、最近はこの人をおいて東京散歩は語れないだろうという大御所タモリによるNHK総合『ブラタモリ』(ほとんどタモリ倶楽部とやってること変わらないような気もするけど)も見入ってしまったりする今日この頃。

「高炉とカーテンウォール」を書きながらかなり考えたことではあるのだけど、どんな街にも歴史というのがあってその歴史の集積が今現在の都市を形作っている。今も昔も全部が「今・ここ」にあるのが都市の面白いところ。だから昨日建てられたビルの横に江戸時代の祠があったりするのが珍しくない。けれどそのことが驚いてしまうのは「今」は「今」によってだけ形作られているのではないということが必ずしも人びとの自明になっていないからなのでしょう。

それにしてもやっぱり東京というところは歩くのが一番面白いと思う。適当に歩いてもどこかしら地下鉄の駅があるから、迷子になって途方に暮れるということはない。歩いて楽しい街、散歩したくなる街、そういうところに住みたい。

ひるがえって、自動車がなければ何もできないわが街──この典型的郊外というところは、空白が多い。それも意味のある空白ではなくて、無意味化を、非存在化を強制されている空白。たとえば寮から本屋まで車で行くとするとその間には片側二車線の道路しかない。というのは、それしか目に入らないのだ、移動している当人にとっては。新しいお店ができても「前に何があったっけ?」なんてことにはならない。なにもなかったのだ。人も入らない、ただの空き地があったに過ぎない。

密集した都市の中の空白というのは空白というだけで価値を持つけれど、ここではそうはいかない。車が走るか人がお金を使うか、そのどちらかがなされなければそこは人びとにとって存在しないも同義なのだ。だから人びとは車を速く速く走らせる。一刻も早く目的地に着いてお金を使いたいと焦る。点と線。それだけ。土地は有り余るほどあるから、点と点が寄り集まって面となることは決してない。人びとの生活範囲も線状である。絶え間ない往復運動は、シーシュポスを思わせる。

目的さえあれば明確なガイダンスの得られる論理的な街である。人びとの求めるものをよく知っている。しかしそれ以上にならない。

茨城の交通事故のニュースを見るたびに悲しい思いになる。もっとなんとかならないのか、と思う。歩いて暮らせる街にならないのか、とも。

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