小畑友紀『僕等がいた』13巻

なんにでも言えることかもしれないけれど、一番傷ついているはずの人がぜんぜん描かれていないといらだちを覚えます。その意味で、この13巻は12巻で見せた山本妹の底抜けの寂しさがページ割かれてなくて若干無念(個人的な思いかもしれないけど)。

しかし様々な再会という「物語」へ持って行ってしまったのはさらに残念。その時点で、もう「再会」というコノテーションに絡み取られてしまう。それをもっともっと裏切った回答がほしい、と思ってしまうのは読者のわがままか。今後「砂時計」のようなパターンに持ち込まれるとしたら、この作品は結局凡庸な「少女漫画」の仲間入りをしてしまう。

「主人公」は描かれなくてもきっと「主人公」なのです。わざわざ小説や物語や漫画を描くということは、それを乗り越えるなにかが、乗り越えなければならないなにかがあるから意義のある話なのであって、誰かも書いていたけれど一生涯を幸福に過ごした人間の小説を書いてもそれは誰にも読まれることはないのです。

お金かもしれない、人知れぬ努力かもしれない、そういうのがなければどうにも自分の人生の主人公になれない人達の姿を見たくて人はページをめくる。それは決して自分より不幸な人間を見出して、その逆照射によって安心したがるメンタリティとは一線を画しているはず。

……と、思いません?

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