蟄居

 事務系の同期が私を残してみんな東京へ異動してしまったので、私の生活も以前にも増して蟄居的性格を増している。

「蟄居」

大学に入りたての頃覚えたこの言葉に最初出会ったときの妙なすがすがしさは今でも覚えている。「蟄」という漢字の姿が持つ妙な説得力。出自を漢和辞典でひもとくことはしないが、まさに足を折り曲げて虫のようにじっとしている。そしてどこか、ザムザ氏のようなユーモアが付きまとう。

逃げるようにして万巻の書に立ち向かうが、あるいは、mixiの「ソーシャル・ライブラリー」なる読書記録システムに読了した書名を書き連ねているが、それもあまりの自分の無節操ぶりを改めて目の前に開陳されるようで近頃はムカムカしたりもしている。一体ひと月に30冊読み飛ばす生活をここ五年近くやって、なにか得たものがあるのかと。いや、なにか得なければならないという思考こそが批判されるべきと言えば首肯する他無いのだが……。

一方で、私は自分の行く末だとか幸福だとかそういうものについて考えることからも逃げている。考えても仕方のないことだからだ。何週間かブログシステムの移行で、書いても表に出す能わざる日々を過ごしたが特に焦りもなかった。今のところはもう、考えても仕方のないことを考えて書き連ねることに興味がない。

しかし「興味がない」と言表することにどこか甘さを感じることも事実で、私は思いっきり悩んで思いっきり筆を振るいたい欲求もある。それは形式的な話かもしれない。頭のフル回転に手が追いつかないでいた頃を本当になつかしく思う。

仕事は順調である。時間と手間を惜しみさえしなければどうにかやっていけることを私はすでに知ってしまっている。そして私は仕事に対するロマンとかイメージとかそういうのをすっかり捨ててしまっている。

社会に出て働くということは、自己実現のためではありません。自己実現のためと思っていると、いつの間にかまわりから人がいなくなります。
自分の能力を他に還元する、という人類の本質的な欲望が、働くということです。
──よしもとばなな『人生って?』

心ある作家の言葉はそれこそ万巻のビジネス書を無化するほどの威力で私の心に突き刺さってくる。読書の効率なんてことは言いたくないけれど、私に必要なのは成功者の演繹的な自叙伝ではなく小説家や哲学者の言葉であり、メソッドではなくアプローチである。

やるべきことはたくさんある。

それをひとつひとつ丁寧に言祝いでいくことだ。

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