モチーフとしての「大学四年」

おそらく現代において最後のイニシエーションというのは社会への入り口なのではないだろうか。最大の自由を謳歌した後に、それが本当に特殊な時間であったことを思い知らされる瞬間、ぼくたちは残念ながら「あの頃は……」という物言いを始めてしまう。それが大人になるということなんだと片付ける前に、なぜこんなにも胸が締め付けられるのかをきちんと見据えた方が良い。

『ポトスライムの舟』で芥川賞を受賞した津村記久子のデビュー作はところどころに森見登美彦的な軽口をはさみながら、就職も決まり後は卒業するだけの春休みの日常を丹念に丹念に読ませる。

夕方の薄闇に翳る散らかりたおした部屋で、わたしは未練とでもいうような思いに蝕まれて、起きあがることができずに枕に鼻をくっつけていた。数時間の経過に、ヤスオカのにおいなどというものはとうに消えて、いつもの自分の洗髪剤の香りだけがガーゼのカバーからしみだしていた。孤独なのか幸福なのか見当がつきかねた。

たぶんだれもが自分に忠実に生きている。そしてお互いがお互いにもうそうするしかない、そうせざるを得ない状況をぶつけてくる。それが良い意味でも悪い意味でも摩擦になる。そういういちいちに振り回される最後の時間なのだろう。

山崎ナオコーラはサークルの人間関係を中心に大学の最後の一年間を追う。まさにそれは「長い終わりが始まる」時間だ(この小説ではもう一つの意味も重ね合わせているけれども)。主人公はひぐちあさ「ヤサシイワタシ」の弥恵を思わせる。マンドリンのサークルで、四年生になっていながら要職が与えられなかったことを根に持ちながらサークル的なノリを否定し「趣味だろうが芸術性を追求すべき」と息巻く。そのどうしようもない協調性の無さが美しいのもまた、この大学四年生というのが最後の季節なのかもしれない。

自分だけではなくて、みんなもいつも、電車に乗っているときや、授業中や、寝る前、たくさんの考えごとをしている。「人の気持ちって」「人の集団って」「次に誰々と会うときは、こうしよう」。小笠原がいつも、頭の中でうだうだ考えているようなことを、みんなもやっている。窓を開けると爪切りのゴミみたいな三日月があった。

最後の輝きはいつだって美しい。そして感性が鈍磨していく中で、停滞する日常をいかに受け止めていくかが、主題となることが、どんなにかシンドイものなのか。それを救う文学はありや。すくなくとも大学四年生をモチーフにした小説は、すっかりおぼろげとなったかつての心の跳躍を少しばかりは思い出させる。

たまたまですがこの二つの小説のカバー写真はいずれもとても好きな写真家のものです。
中野正貴
田中舞

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