やっかいな「自分」

三連休はいつものようにだらだらと読書をしたり、人のブログを全部印刷して一から読んだり、自分の小説をいじくったりして過ごした。大体三連休というのは、一日目にだらだらしすぎて昼夜逆転し、二日目によし今日からはちゃんとした休日を過ごそうと思って洗濯したりホームセンターに買い物に行ったりして生活者としての一面を取り戻したりするんだけど、三日目には次の日の仕事のことを思い出したりして鬱々たる気分になって今くらいの時間を迎える。

なんか前にも書いたけど、人が「渋谷で遊ぶ」とか「土曜日だからおねーちゃんのいる店に行く」とか言うのがいまいち具体的にイメージできないところがあって、「遊ぶ」というのはなにをもって遊んだことになるのかよくわからない。

「渋谷で遊ぶ」としたら青山通りから松濤まで散歩して界隈にある本屋を片っ端からひやかすくらいしかぼくにはできないし、あるいはなんでわざわざ高い金払ってまで他人としゃべらなくちゃいけないのか? もちろんそういうところが人間としてぼくが至らなさを禁じ得ないところではあるのだけど今更先端恐怖症の患者に針を持たせて歩かせるようなのは受け付けない。まあ、精神状態がある複雑な条件を満たせばやってやれないことはないのだけど、だいぶ長い準備期間が必要だったりするのが、不機嫌な時代のまっただ中にいるぼくの未熟さである。それはよーくわかっている。

演ずるなら四六時中。楽屋に不意に入ってこられると、けっこうしんどいのですよ、ぼくという人間は。自分にとってそれが得なのか損なのかずいぶん長い時間かけて吟味しないと決断できないのですよ。ごめんなさい。

美術大学やらから社会に出て、芸術文化が自分の指先からこぼれていくという悲しさを持ったのならば、今度はこれまでの歴史が自分に惜しみなく優れた物を与えてくれてきたように、これからの歴史に向かって自分から貢献していくべきだと思う。

よく読んでいるブログから引用させていただく。これを読んでから(元記事はもっとずっと長いものなのですが)ずーっと、このことについて考え続けている。まとまった自分なりの答えが出たらちゃんと書きたいとは思っているのだけど、なかなか形にならない。でも、彼女の言う「大人になるキャンペーン」に自分も参加したい、しよう、するしかないと思う。そしてどういう形で参加するかを要は、ずーっと考えているわけだ。

明治は遠くなりにけりって、言っている場合ではない(今書いている短編の連作がまさに……)。「ちょーっと待てよ、ぼくはもう三十なんだぜえっ」ってミスチルが歌っていた。そんなの聞いて笑っている場合ではない。「同年代の友人たちが家族を築いていく」中で、あんたはなにを選択しなにを人生の指針とし、仕事以外でなにを歴史に残していくのか、いけるのか、いけないのか!?

あああ、そう言えばこの前の結婚式の話を書かなきゃと思っている。親族としては初めてだったので、久しぶりに会った祖父の変わりっぷりとか、ひそかになんかほんと泣けてくることばっかりだったんで。世代を交代して行かなくちゃならない世代になっちまったってことよ。でも男は子ども産めない代わりに作品残すってだれが言ったんだっけ?

そして冒頭の「気まぐれロボット」を見てそのあまりに円谷プロ的世界にげらげら笑ったのが、唯一この三連休で笑った出来事でした。このクライシス、書くことで自分を救うという原点に立ち戻って、もうとにかく読んでないで書け書け書け書け!

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