鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった』

2008年のおそらく学術書としては異例なくらいのベストセラー。ようやく手にして読みました。

面白い、の一言に尽きます。とにかく著者は憤っています。心理学というものに学問としての厳密性を担保させるために戦っている様が良く伝わってきます。

確かにぼく自身も大学時代、文化人類学やら発達心理学やら学ぶ中でこの手の話はいろいろと耳にした気がします。

・アマラとカマラの話
・サブリミナル広告の話
・アフリカの人は遠近法が理解できない話
・言語によって虹が三色に見える話
・赤ちゃんを左胸で抱くのは心音を聞かせるためという話
・教育すれば馬も数字を理解する話

著者はことごとくこれらに対して
「オオカミの母親が人間の子どもを育てることなど、あるはずがない」
「明らかに撮影者の作為が見て取れる」
「1950年代に、1秒の1/3000の間だけ画面を映写することなど、どう考えても不可能なのだ」
「なにをバカなことを言っているのだろう。この主張の通りなら〈…〉」
「これはどう転んでも誤りである」
などなど、とにかく一刀両断してくれる。この書きっぷりが気持ちいい。

授業の中でこういう話を紹介されると、なんとなくありそうだなという気持ちになってしまって、「今だと考えられないけど昔だったらあり得たかもしれない」などと甘い評価を下してしまう。

しかしこの著者が一番憤っているのは、こうした誤った実験をしてしまったお歴々の心理学学者たちに対してではありません。

アルバート坊やの実験は、論文として残っており、読もうと思えばいつでも読める。誤ったことを書いている教科書の著者たちは、原典にあたらずに、記憶や思い込みや噂を頼りに、あるいはほかから孫引きしながら、話を都合のよいように作り変えてしまっているのだ。

 

原典にあたらずに、みなが孫引きを重ねていくと、「伝言ゲーム」のように、最後はオリジナルとは似てもにつかないものになってしまうことがある。

ぼく自身は国文学科ではありましたがやはり「原典にあたった?」というのはしつこく言われました。孫引きなんてのはもってのほかで、とにかく初出を書庫やら国会図書館やらで探し出して大量コピーするのがレポートを書く上でも最低限のルールでした。

その意味では広く、研究するということの意味や責任を考えてもらうのに学部一年生なんかには格好の読み物だったりするようにも思います。

お薦めですよ!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA