ひぐちアサ『ヤサシイワタシ』

 

ページをめくるたびにイヤな胸騒ぎを憶えさせる。それはこの物語がいかにありふれた大学生の群像を描いていたとしても、唐須弥恵という登場人物の自意識の過剰な破綻っぷりが全ての予定調和をぶちこわす力を常に持っているからだ。

けれどそれは例えば弥恵と『致死量ドーリス』や『ヘルタースケルター』との比較分析をすることで、「境界例」というせまっくるしい檻の中にカテゴライズすることでは決して解消されない。

なぜなら、弥恵は、確実に読者の中にいるし、これを読むことで物語のいくつかのシーンに「ああ、この景色は知っている」「この気持ちは知っている」という強烈な既視感を与えてくる。そしてそれは、ずいぶん久しい感情だったりするのだ。ぼくたちはそれを、解消されないまま忘れたふりをしてうっかり日常に埋没していたり平気でしてしまうのだ。

少なくとも個人的には、こういったものの延長線上に自分はまだいると思っている。弥恵の出した答えが、この先自分に待っていたとしてもあまり不思議ではない、のかもしれない、と思っている自分は、大丈夫だろうか──、という漫画である。

「あなたの体はあなたが動かしてんでしょ
いちいち誰かの反応 見なくても
なんでもちゃんとできてるよ!〈中略〉
ほめてもらうためとか
しかってもらうためじゃなくて
あなたのやりたいこと
ちゃんと考えてよ
考えられるよ」

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