ショウペンハウエル『自殺について』

 

『意志と表象としての世界』も未読なぼくがショーペンハウエルについて云々するのはおこがましい限りですが、この本で気になるのは「時間」に対する考え方です。

〈…〉我々は我々の時間的な終末を一種の滅亡であると考えることになる。これは時間という形式をひながたにしてものを考えているためなのであって、この形式たるや、それの基盤となっている物質がそれから奪い去られる場合には、無に帰するものなのである。

 

時間という認識形式のために、人間(即ち生きんとする意志の肯定の最高の客観化の段階)は、絶えず新たに生まれては死んでゆく人間の種族即ち人類として現れてくるのである。

 

千年前にもちょうどこんな風にほかの人達が坐っていた、それは全く同じ風であり同じ人達であった。千年後にもやはり同じ光景が繰り返されることであろう。この事実を我々に気づかせないようにしている仕掛が、時間なのである。

いくつか引用してみました。

特に最後の引用は詩的でもあり、いささかの救済を与えようとしている意志も感じられます。

人間が意識を持って生きている以上、時間という流れの中に閉じこめられていることは確かですが、かといってそこから抜け出すことはできません。

あるいは、抜け出そうとする努力というのは(それが具体的にどのようなものになるのかはさっぱり見当もつきませんが)滑稽というものでしょう。

けれどもそれが一つの形式でしかないと一方で意識することは、なにかこう、考えることの出発点にもなりうると思います。

なにもノスタルジーの余韻に浸ることを是としているわけではなく、しかしながらただ闇雲に「明るい未来」を根拠もなく夢想するでもない。それはもう、時間という概念に足をすくわれています。

ショーペンハウエルの主張はけれど主張ではありません。〈だから時間を超越しろ〉という主張はついに書かれることはなく、ただ淡々と、ぼくたちの立ち位置を示してくれています。そうしてたとえば千年前の人間の営みを、あるいは千年後の人間の営みを「ああ、彼らも相変わらずぼくたちと同じことで頭を悩ませていた(る)んだ」と考えることで少しだけ認識としての時間をゆがませることが出来る。だから百年以上前の人が残した言葉が、こうして、生々しい。

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