平野啓一郎『決壊』

最新刊、土日で800ページ一気に読み干した。

重苦しい物語である。読んでいてあまりの救いの無さに頭も目も上手く働かなくなる。この感覚は前にも味わったことがある。高校生の時初めて『罪と罰』を読んだときだ。『決壊』はまさに現代の『罪と罰』なのか? そんな判断を急かされる。文体が、文章の一つ一つがそんな力を持っている。

人が情報という束に分解されたとき、「統合されたパーソナリティ」は神話化する。その意味で、殺人者の中にあなたはいるし、被害者の中にもあなたがいる。そのことをネット社会という背景はいとも簡単に人に信じ込ませる。

最後の最後で崇が旧友に語る言葉が彼にとっては図らずも殺人者の論理をなぞってしまうところに、どうしようもない救いの無さを感じてしまう。そこには死刑廃止論とか被害者の人権とか、そういう”形而下”(あえてこの言葉を使う)の問題が全てスポイルされる。そこが恐ろしい。

精神疾患が脳の”欠陥”として片付けられてしまう臨床の現実、あえてそこに神と悪魔という古典的な二元論を滑り込ませる。そして現実という”形而下”でしか生きられない人間にとっては受肉した悪魔しか相手に出来ないという空恐ろしい物語が語られていきます。これはどうしても神の視点──三人称でしか描けない題材だと勘ぐってしまう。

読む人によっては現代の現実に起こった事件を題材として寄せ集めただけに見えるかもしれない。けれど、たとえばルポタージュとしてもここまで肉声を拾い上げた記述は無いのではないか? 著者の練りに練り上げられた思考が織りなすポリフォニーは惑乱する。この小説に答えは書いていない。読書はその巻を置いたときに始まる。

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