漱石的なるものに抗して…

この感情はなんだろう、という歌い出しの後で、まだ髪の長かった男は結局答えにたどり着いたのか? そうではない。彼が出したのは答えを出さずにじりじりと歩んでいくことだった。それは確かに、一つの正解だっただろう。

さて、その勇気は万人の持ちうるものなのか?

箴言を連ねた書物は、自己満足から脱したとき人びとの勇気を勝ち取るのか?

たとえばぼくが同じことを試みたとして、たとえばぼくより若い人びとに何か考える機会を与えるのだろうか? 願わくば、『波止場日記』あるいは船に暮らす男の精神生活、あるいはジョルジュ・ペロス……。

しかしこの四メートル四方の「方丈」は時に監獄としての姿を見せつけてくる。

大学生の頃、少年院の生活について調べたことがある。現実的な範囲で精一杯のストイシズムを実践したかったのだ。それはたとえば「健康で文化的な最低限の生活」がどういうものなのか、といった問題に対する思想的回答として有効だとも思っていた。

しかし監獄としての生活は大いなる自由を前にしてたたずむ不自由さから解放してくれる。これはきわめて漱石的な病だ。そんなことはわかっている。しかし現実的に有効な手段というのは思っているほど選べるものではない。

この四メートル四方の「方丈」は時に監獄としての姿を見せつけてくる。

そうやってぼくは現実をゆがませてなんとか均衡を保つ。放っておけば夜が明けるまで本を読み続ける夢想家のぼくと、会う人会う人にいい顔をしようとする現実的なぼくと。そこに対しては現実的な夢想的な手段が一番の特効薬なのだ。現実と非現実との境が薄れる。それは、よく言われるように危険なことなのかもしれないけれど、生きるということを前提としたときに必要とする人間がいたっていいじゃないか。

しかし次の言葉もおぼえておかなければなるまい。

──信仰は機械的なものとつながっている。狂信は人間を予測可能な機械にしてしまう。(エリック・ホッファー)

モードの選択。その権利。あるいは権利意識。自分の人生は自分でしか何ともしようがない、というせっぱつまった思い。それはゴールではなくスタートである。

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