スイッチ

音楽を消し、小説の言葉もちびちびとしか頭に入れない。そんな休日に誰もいない道路をオイルを変えたばかりの車で走る。そういうとき、ふと思う。あるいは、思い出す。

ある時、ぼくはスイッチを切ったのだ。

最初、ぼくは「スイッチを切られたのだ」と書いてしまった。しかしそれはちがう。それは嘘である。

ちょうど街灯もなにもない夜道をひた走っていたときに、ぷつんとヘッドライトの電球が切れてしまった。

言い直そう。スイッチを切ったのならば、そう、もう一度スイッチをオンにすればいい。それは可逆可能な概念だ。

ある時、ぼくのヘッドライトの球が切れてしまったのだ。

それは経年劣化によるものとはちょっと違う。瞬間の高圧電流に耐えきれなくなったのともちょっと違う。その間くらいのものだと、思う。派手なファンファーレも通夜の営みもそこにはなかった。ただ、現象としてそれは光を放つことをやめた。

それからぼくはどうしたのだろうか。

それまで熱中してきたことをぼくはゆっくりと収束させている。あれほどに焦燥感を募らせた”自己表現”とかいうものに飽きている。それでも、いや、それだからこそ、日々の生活は安泰だ。毎月振り込まれるお給料はしばらくは──この先十数年は──少なくとも下がることはないだろう。ぼくはそこから幾ばくかの拠出をして好きな書物を買い、残ったお金を貯蓄するだろう。これはかつて憧れた生活の一つの完成ではある。

一度走り出してしまえば走り続けることにさして苦労ない。走り続けること自体に対して懐疑的にならない限りにおいて。

歳を取ることはそれほど怖くはなかった。歳を取ることは僕の責任ではない。誰だって歳は取る。それは仕方のないことだ。僕が怖かったのは、ある一つの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終わってしまうことだった。それは仕方のないことではない。──村上春樹『遠い太鼓』

電球の切れたことは僕の責任であるのか、仕方のないことなのか、そうではないのか。そこに答えを与えるには二つの全く異なる世界観の選択を迫られる。正直に言って、迷っている。

たとえば過去のある一時期に上の引用を僕が読んだとしたら、きっと冷ややかな態度を取っただろう。ぼくはそのとき、人が何かを指向するとか自己を高めたいという欲望とか、そういうものに対してひどく憤っていた。理由はない。そんなものは奴隷根性だと、頑固に思いこんでいた。その意味で、迷いはなかった。

単調な毎日のくりかえしに人間は時に、立ち止まって振り返りするらしい。そしてそこに見えたもののおぞましさに目を覆いたくなるらしい。

このままでもなんとかやっていけるさ。

衣食住足りて、そんなことを思うのならば今すぐに死んだ方がいいだろう。あえて僕はぼく自身に対してそう言う。

……こういう文章を書くのは実に久しぶりだ。

話を変える。

会社というのは恐ろしい場所で、いちおう年次が上がっていけばそれなりの担当を割り振られる。「恐ろしい」のはそれは純粋に役割分担でしかなくて、彼/彼女だからそれを割り当てるのではない、という前提があるからだ(もちろんそれはしばしば隠蔽されている)。年次が上がる、というのは単に自分より年の若い人間が同じ職場に来るということでしかない。

なぜわざわざこんなことを言わなければならないのか。自分への戒めか。違う。これは事実をただ述べているのであって、たとえばオーディオプレイヤーの取扱説明書と何ら次元を異にするものではない。

「恐ろしさ」について言葉が足りなかったようだ。

立場が人を作る、とかつて僕の上司は諭した。しかし同時に立場は人を欺く。人、とは当人も含まれる。

片方の世界観をもう片方の世界観に当てはめようとしてはいけない。しかし人は多くの場合そういう過ちを犯す。そしてそれが過ちであることに気がつかない。ある人は出生街道まっしぐらという物語に自己実現や自己の向上といった甘っちょろい物語を重ね合わせようとする。そしてその結果人の心を読まなくなり、あるいは読めなくなり、果ては家族に見放されるか就職情報誌を片手に「前の会社では課長をやっておりました」とか言ってしまうのだろう。そういうのはでも、幸福な、と形容することもまだ出来る。

しかしぼくの選択した世界観は、それを悲劇と判断するはずだ。

僕は何も変わっていない。それをこそぼくは目を見開いて、感じ取らなければならない。

「生活」という言葉は諸刃の剣である。

そんな書き出しにすれば良かったのだ。ようやく言葉が思考に追いつく。言葉はいつでも遅れてやってくる。それも招かれざる客のように。

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