【短編小説】非常電話

 もし電話のベルが、かけてくる相手の感情にあわせて音色を変えるとしたら、卓也はその電話に出なかっただろうか。しかしこの問いはいささか彼自身にとってはアポリアであるかもしれない。なぜなら彼はそういう選択が可能な立場にはいないからだ。そんなわけで彼は午後二時にかかってきたいつもと変わらないベルを鳴らすその電話を取ることになる。


 ──もしもし? もしもし?
 ──えっ? もしもし?
 ──あっ もしもし? すいません、助けてください。助けてください。
 ──えっ? いや、あの、こちらは経理室になりますが。どちらからおかけですか?
 ──わかりません。どこにいるかわからないんです。まわりが……真っ暗闇なんです。
 ──非常電話か何かお使いで?
 ──ええ。穴に、穴に落ちたみたいで。
 ──工場ですか? どちらの工場ですか?
 ──それがよくわからないんです。私もこちらには来たばかりで……設備の点検を請け負っていて……とにかく、油が。油がすごいんです。
 ──まさか油圧タンクに落ちたんじゃないでしょうね? 油って、油は腰までつかっている感じですか? 足元……頭まで?
 ──真っ暗なんです。手がべとべとして。ああっ、……もう……っていられない。
 ──何か音は聞こえませんか?
 ──えっ? 良く聞こえません。
 ──後ろ、すごい音ですけど!
 ──…… …… あ、モーターが……りはじ……
 ──えっ? もしもし? もしもし! もしもし!
 残念ながら卓也が覚えているのはそこまでだ。興奮のあまり受話器を持ったまま立ち上がると、彼はそのまま目の前が真っ白になり、イスとともに派手な音を立ててその場にくずおれた。
 経理室にいた十六人の室員のうち、彼に駆け寄ったのは五人だった。後輩が二人と、指導員が一人と室長だった。彼に利害関係のある人物は正確に数えてその五人というわけだ。彼がそのことに気がつかずに気絶したことは「残念ながら」と形容すべきではないかもしれない。いずれにせよ、彼はすぐに抱き起こされ、指導員の多田が構内の診療所へかついでいった。
 その間、電話の主はどうしていただろうか? 確かにその日、一人の外注作業員が厚板工場のオイルセラーの中から発見されることになる。が、話は始まったばかりだ。急がずに行こう。
 目を開けたとき、卓也は自分の体がベッドの上に横たわっていることを発見した。
 電気は消えていて、カーテンの閉められた窓からうっすらと外の光が入ってきている。起きあがろうと腕を動かすと点滴の針が右腕の真ん中に刺さっていることに気がつく。仕方なしに彼は腰をずりずりとまくらの方へ近づけていき、なんとかベッドの上で座る体勢をとる。体の痛みはなかった。
 ふと窓の方を向くと、一番窓際に位置するベッドにもう一人の人間が休んでいることに気がついた。彼は作業着の上着を脱いで肌着姿のままやはり腕には点滴を刺してぼんやりと中空を見上げている。五十歳風情で、あごにはそり残した白いひげが行儀良く並んでいる。
「ここはどこですか?」
 こんな狭い部屋に二人でいるというのに黙っているのも気が引けて、卓也は聞いてみる。
「診療所だよ」
 男はあごを指の腹でなぞりながらもごもごと言った。
「診療所?」
「そうだ、診療所だ。来たことないのか?」
 そこで男はやっと中空から卓也の方へ視線を移す。その目を見て卓也は一瞬、アルコール中毒で入院している父親の目を思い出す。
「いや、ありますけど。──でも、こんな部屋あったんですね」
「おまえはよほど幸運にできあがっているんだな。何年目だ?」
「二年目です」
「俺がおまえくらいの時は毎日ぶっ倒れるくらいまで仕事してここで点滴打ちながら朝を迎えてそのまま出社したもんだよ」
「それでストレスに負けてお酒におぼれちゃうんですよね」
「ええ?」
「いや、こっちの話です」
「ふん」
 卓也の応対に幾分機嫌を損ねたのか男は視線をまた元に戻す。薄いカーテンを通ってくる外の光で男の横顔は真っ黒だった。卓也もまた視線を自分の膝の上にかかっている布団の上へ戻す。そして、自分がここに運び込まれた顛末を少ない記憶の中から想像したりして、袋の中の黄色い薬剤が無くなるまでの時間を過ごすことにした。
 そのうちに男はナースコールを押した。しばらくすると看護師がやってきて針を抜く。
「もう大丈夫だ、現場にもどんなくちゃな」
「大丈夫なの? 係長に言って今日は早く返してもらうように頼んであげましょうか? ね、その方がいいですよ」
「いやいや、俺がいないとあの班はダメなんだよ。みんなバラバラになっちまうからな。みんな俺が戻るのを待っているよ」
「そう言ってもねえ。気をつけてくださいよ」
 看護師の心配をよそに男は布団を大仰にはねのけて「よっこらしょっ」と大きな声を上げると体をストレッチしながらなおも卓也に向かって話しかける。
「あんちゃん、知ってるか? 昨日テレビでやってたんだけどな、カカオ豆を収穫している南米の子供たちは自分たちが採ったものがチョコレートになるなんてこと知らないんだってな。ましてやチョコレートなんて食べたこともないのかもしれねえ。まっ、俺たちも同じってことだ。せいぜいがんばんな」
「どうも……」
 男は上着を肩に引っかけると半ば足を引きずるようにして部屋を出て行った。卓也はほとほとうんざりする気持ちに駆られた。そしてまた、そういう感情を抱いてしまう自分にもうんざりするのだった。
「元気な人ですね」
 卓也は頭の中に立ちこめてきた暗雲を払いのけるようにして看護師に話しかける。
「そうね……」
 そう言いながら彼女は卓也の枕元までやってくると彼の腕に刺さっている針の様子やポリエチレンの袋に入った薬液の残りをチェックする。
「君も──」
 看護師が口をそう開いたとき、外から救急車の走り去るサイレンの音が聞こえてきた。卓也たちはカーテンの掛かった窓の方を見る。
「なにかあったのかしら。構内を通っていったわよね、今」
「ええ……」
 卓也は自分の取った電話のことを思い出す。自分に電話をかけてきた彼は助かったのだろうか。うまく這い出すことが出来ただろうか。他の人に見つけられたのだろうか。
 そう考えると卓也はここでこうしてベッドに寝そべっている場合ではないという気持ちに駆られた。
「あの、そろそろ戻らないと」
「だめよ。点滴が終わったら帰宅してもらうわ。さっき君のところの室長と話をしたんだから。さあ、横になって」
 看護師は卓也の肩をつかんでベッドの上に押し戻す。こうまで言われてはそうするしかなかった。いずれにせよ救急車は到着したのだ。誰かが彼を救ったに違いない。そう思うことで卓也は自分を納得させる。
 三十分後に点滴が終わり、卓也は厳重に帰宅を言い渡されいくらかのビタミン剤を持たされると解放された。例の看護師は「もう来ちゃダメよ、体をちゃんと鍛えなさい!」と言うとばしばし卓也の背中を叩いた。
 卓也は変える前に室へ一度顔を出した。室長の席まで行って頭を下げる。
「さっき、誰と電話していたの?」
「さっきって──ぼくが倒れたときですよね」
「そう」
「わかりません。ただ、助けを求められました。彼は暗いところにいて、油が迫ってきていたようです」
「明日でいいから警察にそのことを話しなさい」
「警察?」
「どうやら、関係会社で事故があったみたいでね」
「救急車──」
「そう、音、聞いた?」
「はい──」
「まあじゃあ、今日は帰りなさい。後のことは多田君にまかせて」
 卓也の内線番号は2222だった。追いつめられていた男は手探りで必死にボタンを押したに違いない。
 まだ日の出ているうちに社員寮へと戻ってきた卓也はそのままベッドに倒れ込んだ。しかし彼の睡眠はいっこうにやってくる気配がなかった。あたりまえだ、さっき診療所でさんざん眠ったのだから。それでも体の芯にからみつくねっとりとした疲れは確かに感じられる。
 卓也はむっくりと起きあがると窓辺のおいてあるコーヒーミルで豆をすり始める。手回しのミルに一人で飲むには飲みきれないくらいの量の豆を入れ、彼はゆっくりとハンドルを回す。
 五本目のタバコと三杯目のコーヒーを飲み終えたとき、窓の外はすっかり暗くなっていた。その間彼はただひたすら自分の体内に毒物とカフェインとを投入することに集中していた。
 独身寮にはだれ一人として帰ってくる気配がない。
 卓也は森閑とした寮の、その部屋の中で押しつぶされそうな孤独を感じ始める。誰かに電話をしたくなる。もしかしたら彼も──卓也に必死の電話をかけてきた彼も同じ思いを抱いていたのかもしれない。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。