これこれ!

大変楽しい読書時間だった。まさにこの本に書かれていることを考えていたのです。〈ジャスコ-TSUTAYA〉的なものと我々がどう対峙していくのか、つきあっていくのか、許容するのか、排除するのか、判断するのか、評価するのか。そのことを非常に強く考えさせられる記述に満ち満ちています。

ぼく自身、西多摩に実家がありながら中高が神奈川だったこともありその頃遊ぶ場所といえばもっぱら横浜、川崎、溝の口(神奈川というのは横浜駅周辺からちょっと私鉄に乗るとすぐ田舎なのです。それなのに確かに神奈川県人というのは東京に対するコンプレックスからは開放されているのです。その感覚は確かにあります)。

地元だとやっぱり立川で、本書では多摩ニュータウン周辺にまでは論考が及んでいないのが残念ですが、ニュータウン以外の東京郊外という場所の意味合いについてはもっと考えられるべきじゃないか? ていうか自分で考えなくちゃ。立川というのはやっぱり立川飛行場と横田基地が重要性を帯びてくるんじゃないか。まあこの辺はまたそのうち考えてみよう。

大学が駒場の時は渋谷、下北沢、本郷に行ってからはまあいわゆる東側を探索したりしました。都内のついての記述は『アースダイバー』にも詳しいのでいろいろと自分がいったことのある場所については思い出しながら楽しむことができた(新大久保に初めて行ったときはやっぱり驚いた。マクドナルドの店員が韓国人だったからね)。

で、まさに〈ジャスコ-TSUTAYA〉的な、というかまさに歩いていける距離にその二つが並んでいる茨城の片田舎に今はいるわけで。この場所に住むという体験はたぶん、東京神奈川でしか暮らしたことのないぼくにとってはやっぱり地方と東京というこれまたわかりやすい二元論だけど、とにかくそのことについて考えるには絶好のチャンスだったわけだ。で、あんな小説を書いた。

ただ、もはや都市を物語によって消費するというスタイル自体が崩壊しているんだと。都市というのは個人によってそれぞれがそれぞれの方法で消費していく場所になってしまい、渋谷に対する訴求力(なにかってーとコギャル文化でしたからね、90年代は)が一時期よりもなくなってきているにはその一つの現れ。

まあ確かにそれはその通りなんだけど、それはパンクチュエイトな意味においてであってやっぱり評論家ではなく小説というある種の物語を指向するぼく自身としてはこのただならぬ都市を源から支えている何か──小説では人間の様々な思いであるとか欲望であるとかそういうものとして、それを肯定したかった──に惹かれてしまう。『アースダイバー』はもしかしたらトンデモ本なのかもしれないけれど、仮にそうであったとしても一つの物語の提示としては非常に面白いものだと思ってしまうのです。

お台場にもヒルズにも汐留にもなんの興味もわかない。やっぱりそれは作られた清潔なテーマパークなのであって、そんなものはジャスコ○○店にわらわら集まってくるヤンキー根性と何ら変わりはないのです。個人的にそういうものは美しくないと思う。どうしても谷中とか墨東の地に足ついた感じ、新宿東、西口の猥雑な感じ(あれは南口とホント対照的)に真実を見たくなってしまう。立川にビックカメラができたときはショックだったし、アキバにヨドバシができたのも当然のようでありながらちょっと違うぞそれはという感じがした。その感覚は正当であると信じている。

んー、なんかいいたいことがまとまらないのですが、とりあえず東の発言──とはいえ、都心に住むのは、思想的に敗北という感じもしますね。ショッピングセンターとファミレスしかない荒れ果てた郊外で日本社会が崩壊していくさまを肌で感じないと、批評なんて書けない気がする──に、ちょっとだけ勇気づけられる。

※上記の視点で『下妻物語』なんて読み直してみるとけっこう面白いかもしれませんね。

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