読者の想像力に依存する携帯小説

携帯小説って、どうやら定義としては携帯電話で書かれた小説ということなのだろうと思うのですが、魔法のiらんどなんてパソコンで見る人もいないだろうからやっぱり携帯で書かれかつ携帯で読まれる(ことを想定している、と但し書きをするのは書籍媒体でも読まれているようなので)という前提がまずあるんだろうね。

なので紙で読んで、そのあまりの空虚さに(紙面がだよ、内容もだけど)憤ってもたぶん携帯小説の現象の本質をつかんだことにはならないのでしょう。

で、ぼく自身の判断はというと、タイトルにもあるとおり。

とりあえず携帯小説の傾向として、以下のようなことが言えるのではなかろうか。

1.筆者が自らの体験をもとに書いている
2.筆者は消費者と同じ女子高校生を中心とする世代だ
3.2に当てはまらないときは主人公が消費者と同じ境遇だ

何が言いたいかというと、読者からすれば自分と同世代の主人公が恋愛して人が死んでそれを乗り越えていく、しかも実話がもとになっている→自分もこんなヒロインになっちゃうのかもしれないという強い錯覚体験──という物語の消費としてはもっともベタな展開になっているような気もする。

だから中年のおじさんが若い女の子とどうかなっちゃうとかロシアの中流貴族の恋愛譚とか外交官がばりばり活躍するとかそんなものは絶対に携帯小説にはならない。断言します、絶対になりません。これは次に述べることとも関連します。

一番気になるのは文章が表している内容の空疎さ。これはストーリーの空疎さではなくて(どんな小説も内容だけ取り出したら空疎なものです)、一つのセンテンスが表現しようとする内容の少なさです。しかも一つの文で一つの展開を説明しようとするので、一文=一段落の感覚で展開していきます。とにかく展開が早い。未完成のプロットを読んでいるようです。

しかし全編がそんな調子で進むのかというとそうではなく、主人公の心内文がやったらめったら悲観的で中学生の書きそうな詩みたいにだらだらと続く。とにかくこれが長い。

つまり話の展開とか状況説明とか場所・空間の説明というものに全く労力が割かれていない。たぶん志賀の大山の有名な描写とか(ぼくは嫌いだけど)とはまったく無縁の世界。とにかく自分がどう思っているか、そればっかり。もしかしたら自分以外の登場人物が自分のことをどう思っているのかとかも描かれていないかもしれない(だれか暇な人は検証してみて)。これは小説という形式をとっているのでとくにそれ自体は非難に当たらないけれど(つまり自分の感覚したものだけを「ありのままに」描くというのは一つの小説的技巧だから)、もしかしたら筆者自体の想像力の欠如に起因するのでは? そして読者もまた自分自分の賛歌が続く携帯小説を読んで同じ穴のむじなになってやしないか?

というまあこれはお決まりの「おじさんが若い女の子の小説を読んで現代若者論を展開する」という群像の創作合評でよく見かける非常に悪いパターンなのでこのあたりで口をつぐみますが、でもやっぱりちょっと気になる。

話を元に戻すと状況設定はほとんどが学校とかその周辺なのであえて風景描写をする必要がないのです。読者もよく知っている光景だから。かえって学校の中庭にはコスモスが咲いていて地下の食堂はお昼の十二時になると人がひしめくとかそんなことをぐだぐだと書いていたらくどく感じられるのでしょう。

では風景描写を必要とするほど日常から離れた場所に物語を移すとしたら? という想像をする前にそもそもそんなものを携帯で書く人がいますか、そんなものを携帯で読む人がいますか、というそもそも論に足をすくわれる。すくわれていいのです。だって世の中にはちゃーんと新潮文庫も岩波文庫も存在しているのですから。

そんなわけで、携帯小説というのは読者の境遇とその境遇の内側でしか物語を展開させないという想像力の「倹約≠欠如」によって成り立っている、というのがぼくの仮説です。仮説を検証するほど携帯小説を読みたいとも思わないので、読んでいる人はどうぞ異論反論をば。

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