いつだって終わりは突然やってくる

自著より引用。

いつだって新しい状況に慣れることは得意だった。そうして、いつのまにか自分がとんでもないところまで歩いてきてしまっていたことに気がつく日が必ず来る。決まってその瞬間に幕が下りた。突然それは終わってしまう。そしてまた新しい環境に身を置くことになる。それを繰り返してきた。

ようやくぼくは「そのこと」を語るところまで歩いてきたのかもしれない。その道のりは「地味」の一言につきるだろう。だがそれは「堅実」とか「マイペース」とか、そういうプラスのコノテーションを帯びた言葉に置き換えられるようなたぐいの「地味」さではない。文字通り、ぼくは何の色もない、あるいは何か色はあったのかもしれないが光の無いためにぼくの瞳にはその鮮やかさが映じない道のりをとぼとぼと歩いてきた。

何度かぼくは「そのこと」について書こうと脈絡のない物語をワープロに打ち込んだりもした。それはいつでも徒労に終わり、数日かけてやっと一枚ということもざらだった。

ぼくは焦りすぎていたのかもしれない。

焦る必要はなかった。このときが訪れるのをただじっと待っていればよかったのだ。

太宰治がその処女創作集『晩年』(なぜデビュー作にこんな題名をつけたのか? それが彼のすべてを表している)を刊行したのは彼が27歳の年の六月。メルクマールにするには好都合の数字だ。ぼくはこれから27歳の六月まで作品を書きためることにしよう。そしてまた本を出すことにしよう。それからのことはまたそのときに考えればよい。

しかしこのエントリーがただのきまぐれなマニフェストに堕する日が来ることも、どこかで願っていたりもする。しかし今度ばかりは、残念ながら、そんな日が来ないことを確信している。これは静かな絶望である。静かな諦念である。

──くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。
   この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。(太宰治)

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