綿矢りさ『夢を与える』

綿矢りさ『夢を与える』を読みました。

単行本が発売されて、そういえば初出掲載紙を買ったままで読んでいなかったのを思い出して本棚から「文藝」06冬号を取り出して読み始めました。

この号は伊藤たかみの芥川受賞特集で、そういえば彼の名前を見るのは同じ「文藝」でもう何年も前に彼の『ロスト・ストーリー』刊行後のインタビュー記事を読んで以来だなあと考えると、あれ、もう10年近く前の話になる。

あのころは河出がやたら「J文学」という言葉を流行らせて、その中の若手一作家という感じだったのですが……ぼくも高校生だった! なんだか時間の恐ろしさを感じさせる。

で、話を戻して。
070303_1336

作品の内容についてはもう方々で紹介されているので今更ですが、子役アイドル夕子のビルドゥングスロマンとでも言ったらいいでしょうか。

芥川賞受賞第一作にしては平凡なタイトルだなー、と思ったらぜんぜんそんなことがないのがこの作品のすごいところです。読後、この言葉は読者にとってなんというか引っかかる、軽々しく口に出すのをはばかられる言葉として立ち現れてきます。

「(…)たとえば農業をやるつもりの人が“私は人々に米を与える仕事がしたいです”って言う? (…)“与える”っていう言葉が決定的におかしいんだと思う。お米は無理で夢だけが堂々と“与える”なんて高びしゃな言い方が許されるなんて、どこかおかしい(…)」

この小説はこの台詞を起点として「与える/与えられる」という関係性における人間の有様を描いているのだと思う。

仕事を与える/与えられる

とか

いや、それ以上にこの無味無臭の言葉に隠れているひだのようなものにまで作者は言及している。

無名時代の夕子は仕事を与えられるばかりだった。それがひとたび売れっ子になれば仕事を「お願いされる」立場になる。「与える/与えられる」という関係の一つの変奏。

幼い夕子が周りの大人たちに媚びを売っても彼らはいっこうに喜ばなかった。与えているのに「受け取られない」という態度。本人は「与えている」つもりでも「与えられる」という彼岸がなければ成立しない悲しい関係性。

あるいは正晃の「まだやれるからって、やる必要はないだろ。まだやれるけど、やらない。それでいいんじゃない」という、与えることができるのに「与えない」という考え方。

そして最後の「スキャンダル」のエピソードは「与える/与えられる」という関係性が「奪う」という行為によっていとも簡単に崩壊してしまう様を代弁しているようにも見える。

非常に救いのない物語ではあります。スキャンダルのあと夕子は「でも、今はもう、なにもいらない」と「与えられる」ことのすべてを拒絶する。そしてこの小説のタイトルが「与える」ではなく「夢を与える」である以上、夕子は「夢を」「与える」のそれぞれにこだわりを持ち続ける。

夢を与えるとは、他人の夢であり続けることなのだ。だから夢を与える側は夢を見てはいけない。

というよく引用されるくだりは、おそらく、「米」と夢の違いを的確に述べている。「米」は与えられると同時に与えることができる。米を食いながら米を作ることはできる。しかし夢は、与える側がその享受者として同時に存在してはならないもの。

夢が現実の対義語として存在するのならば、

(「夢/現実」=夢)/現実

という図式に見える「=」のうさんくささを、だれしもが感じ取ってしまう。そこにつけ込まれたらおしまいだ。掟を破った夕子は確かに悲劇に見舞われてしまう。

という、そういう小説です。これをアイドル作家としてはやし立てられた作者本人と重ねてついつい読んでしまわせるのが、にくいなあ、と感じてしまう。まあ、本人は否定しているけどね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA