人間にとって変化とは何か(続)

それで、昨日の続きを書こうと思っていまお風呂から出てきてこうしてパソコン(”ワーク”じゃないですがw)の前に座っているのだけれど、既にぼくは昨日の段階で一つの答えを出してしまっている。

変化とは常に既に事後評価でしかないということ。

意図された変化は茶番でしかないということ。

でも、それではやっぱりなあっ、という気持ちもないわけではない。だってやっぱり八方ふさがりになったときに人間が取る行動はそれがどんな意図に基づいていたにせよ、必然だと思いたいから。でもたぶん非難されるべきは、変化のための変化。自己目的化した変化。それだろう。

だからそう、これからの時代転職経験がない者こそ危機管理能力の欠如としてマイナス評価を食らうんだとか何とかまことしやかな「新しい」価値観に振り回されて単に転職経験がありますみたいなことを言いたいがためだけに転職先を探すのは、愚かというものだろう。

それでも大企業にいて、ぬるま湯につかっていつのまにかさび付いてトンガリを無くしてしまうのもそれはそれで問題だ。かつてキムタクは「手を抜く方が疲れる」という名言を残したけれど、そういう種類の疲れがサラリーマンの間に蔓延しているのだとしたら、”癒し”もへったくれもない。

つまりは、大事なのはポテンシャルを維持し発展させることができるかどうか、ということだ。それさえ出来ていれば、今の場所に留まろうが他の場所へステップしていこうが関係ない。世間ではそういうのを「つぶしがきく」って言うらしいけど。

その努力はきっと「単調な繰り返し」なのでしょう、受験勉強と同じく。変わらないことに耐えられる者だけが、本当の意味での変化を迎えられるのかもしれません。それはきっと、向こうからやってくる。椿事を待つ少年の目は一刻も早く捨て去り、とはいえ暑苦しい熱血漢の口角泡を飛ばす拒食症的なやる気にもげんなりしながら、クールに、頭の中に新鮮な空気を送り込みながら新しい光の中で、自分を前に進めていきたいと思います。ほんとに。

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