人間にとって変化とは何か

人間は変化を求める。

このことに異論を唱える人はいないだろう。けれど「変化」であればなんであれよいのか? 当然、否だ。

同じ時間に起きて同じ会社に行くという毎日。それを何千人という規模を持つ会社であれば、一つところにおのおのがおのおのの朝を迎えて同じように出社してくる。いったいこれは何なのだ? なんの魔法なのだ?

一方に貨幣所持者あるいは商品所持者がおり、他方に自分の労働力しか所持していない者がいるという状態は、自然が作り出したものではない〔……〕。それは明らかに過去の歴史的発展の結果であり、多くの経済的変革の産物、社会的生産の古い諸形態の連綿たる没落の産物である。

マルクス『資本論』,筑摩書房「マルクスコレクション」,2005より

気の遠くなることがたまにある。
なぜ、こうでしかあり得ないのか。なぜ貨幣があり、労働力があり、それが単位時間あたりで売買されるなんてことがあり得るのか。なぜもっと他の形式が歴史的展開の中で生き残ることを許されていないのか?

逃げ出したい。

魔法から解かれたい。

そう思ったことは誰にでもあるはず。しかしそれは変化を求めているということなのか? まずはそうだろう。だがここで人は一つの選択を迫られることになるだろう。

fight or flight 闘争か逃走か

いずれも変化を求めることに変わりはない。しかし事態はそうそう単純ではない。

迷いは、”飛躍と逃避”がどっちつかずのときに生じる感情である。この迷いは、レストランでメニューを手に思案するのとはちがう。ここには、一目散でそこから逃げ出したいという退却の心理が隠されている。

新野哲也『頭がよくなる思想入門』,新潮選書,2000

闘争か逃走かを選択する余地を自分に残している時点でそれは既に逃走なのだ。きっと戦士にはわかっている。自分には闘争の選択肢しか残されていないのだ、と。その姿は確かに「美しい」だろう。24時間戦うつもりで茶色い小瓶をそっとカバンに忍び込ませたりするのだろう。ビューティフル・ファイター。

楽になる事にとても興味は無いと
やめないでエンターテイナー もう少し
Beautiful Fighter Grateful Slider
ここが世界の中心だと
Beautiful Fighter Wonderful Danger
右手を上げて 私に示して

鬼束ちひろ「 Beautiful Fighter 」

彼らを茶化したくなる衝動をぼくはここで懸命にこらえなければならない。なぜなら同じ穴の狢にいつなるかわからないからだ。明日は我が身。いや、そうではない。資本主義の中で最も精彩を放つ彼らの価値観は、この社会の内側から見ているとやはり美しいからだ。そのことを否定しようとは思わない。「社長の告白」本にぼくが素直に感銘を受けてしまう口であることをここで告白しなければならないだろう。

閑話休題。

きっと、ぼくも含めて多くの働く人は立ち止まっている。闘争と逃走の前で。そして逃走の可能性をよくよく吟味してその非現実性にある日気がついてしまう。彼らには家族がいるだろう、いつまでも新卒であるわけではない、頼ってくる部下もいれば自分にしかできないと任された責任重大な仕事がその中に含んでいる「やりがい」みたいなものをうっかり発見したりもするだろう。そうして、そろそろと闘争に手を伸ばす。

迷っても仕方がないのだ。

迷ったところで逃げ出せるわけはないのだ。

そのことを年をとるにつれて身に染みこませていく。そして偽りの野性を持ち出して会社生活を全うするのだろう。その方が楽だから、どう考えても。この社会のかたちが求めてくるものに身をゆだねれば摩擦はなくなる。日々をするりするりとやり過ごしていくことが出来る。それが成熟というものであり、大人になるということとしてこの国では認められている。

それを茶化したいのではない、断じて。なぜならこれは、ぼく自身の問題でもあるからだ。

最初の問いに戻ろう。人間は変化を求める。しかしその変化とはいかなるものであるべきなのだろうか?

だが物事の評価というのは常に既に事後のものでしかない。それも事後の事後になると評価がひっくり返ったりすることもままある。だから今は失敗だったと思ってもほんの少しの契機で「やっぱりあれで正解だったのだ」と思えるようになる可能性がある。このことはぼくたちを勇気づけてくれると同時に失望させる。逆のパターンだってあり得るからだ。

たとえば時限装置としての大学受験――確かにぼくはそれをうまくやりおおせただろう。しかしそのことを恥じることがたまにある。なんと狭い枠組みの中で「成長=変化」を渇望していたのか、と。純粋な中に浅ましさを感じる。あるいはあれほどの素朴さをもう持ち合わせていないと言うことの証言になってしまうのか、これは。

ここでぼくはもう一度立ち止まることになる。いったい「闘争か逃走か」は有効な問いなのだろうか? と。闘争こそが逃走であり、逃走こそが闘争ではないのか? そんな見方さえ、できてくる。

この文章を書き始めたとき、もう少しポジティブな結論をぼくは期待していた。ぼくは自分自身および自分とは異なる選択をした人の両方を肯定する視点を提示したかったが、今や一緒くたになって全否定である。

このままじゃ、いけない気がする!
という自己反省から、新しい自分が生まれたことは、かつて一度もない。あったように見えても、それは後になって作られた経歴のリアリズムによる八百長だ。むしろ自己反省を僕らに押しつけてくるエラそうな自分をこそ、肥満した自分だと悟って頭を丸めるべきなのだ。

霜栄『生と自己とスタイルと』,曜曜社,1994

いまいちど、この言葉をかみしめなければならないだろう。ぼくは大きな誤解をしながら生きているのかもしれない。間違った前提を大事に抱えているのかもしれない。

ねえ、変化ってそもそも主体を求めるものなのだろうか?

(つづく)

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