彼は、司法試験の勉強に身を入れないまま、一五年の歳月をディベートとアルバイトに費やした。〈中略〉彼は、なによりもまず司法試験の勉強に専念すべきだった。〈中略〉怠け心の言い訳にドデカイ夢を語り、ピントのずれた現実を生きてきたのはなぜか? 自分がまだ「何者」でもないことを認めたくなかったからである。
もう何度も読み返した荻野文子『ヘタな人生論より徒然草』からの一節です。そしてこの一節も何度も読み返した。自分が、同じ穴に落っこちていないかを確認するために。
いったい、会社という組織にいる間は(=一日の時間の中で経理室員の名札をつけている間は)自分で自己規定をする必要がありません。必要がない、というよりはできないと言った方が正確でしょうか。
だから、たまに三連休が訪れてくると、どうしようもなく「何者」でもない、あるいは自分で自分をどういう存在にあるのか(過去現在未来の三点の中でどこへ向かおうとしているのか)を規定できていないことに、いらだつ。
かつてぼくは大学生であった。この言い方はこのエントリーの中に限っていえば正確ではない。「大学生」「会社員」「経理室」なんてものはただのカテゴリーにすぎなくて、やっぱり当時は自分のことを「とりあえず時間があるから小説を読んだり書いたりしている人間」としか思っていなかった。ときどき、試験の時だけ「世の中には勉強したくてもできない子供たちがたくさんいるんだ」なんてことを持ち出して「日本の大学生」というカテゴリーを無理矢理アイデンティティーにすり替える操作をしていた。それは今でもそうだ。好きでもない仕事をあたかも自分が必然的に選んだかのように錯覚させる。それは生きるための技術であり、あるいは、技術でしかない。
会社に入り立ての頃、悲壮ぶって「本当は小説家になりたいけれど今は会社員に身をやつし、組織の闇を暴こうとする侵入社員」とか、そんな風に自己規定をしていた。お金が入ってきて、欲しかった本をただただ買い漁った。土地と時間とがノスタルジーを喚起して、ここにいることに耐えられないこともあった。
きっと、アイデンティティーとカテゴリーというのはどちらが優れているとかそういう問題ではないのでしょう。きっと世の中の多くの人は周りのに人間がこうだと決めている自己像よりも自分がこうだと決めている自己像を尊重することでしょう。事実、ぼくもそう思う、思っていた。けれどアンバランスなんだ。人がこうだって言っているものに耳をふさいでしまうと、ピントがずれてしまう。だって、この世の中の現実はやっぱり人がこうだって言っていることの積み重ねで大半は成り立っているから。いくらぼくが「たばこなんて吸わないですよ」と人に言ったって、「オマエ今日吸い過ぎだよ」と飲み会の席で言われればそれはそうなのだ。この喩えはけっこうばかばかしく聞こえるかもしれないけれど、特に依存性のあるものに関しては自覚というものが本当に当てにならないものなのだ。依存性のあるもの——たとえば、夢を語ることとか大言壮語しちゃうこととか。
どうすればいいのかがわからない。
どうしたいのかもわからない。
ただ、日々をやり過ごしているだけだ。
特に耐えられないのは、たとえば深夜の2時、ゴミダメのようになった頭を抱えながらひとり風呂につかる。ああ、こんな生活があと何十年も続くのか、と嘆息してみる。出発はついに訪れないのか、いや、「出発」というのは結局誰かの号令だ。この怠けきった体質を、ぎりぎりのところで自覚している。
都度、ベストの選択をしてきたことだけは自負している。しかしそれは帰属先をいかに探すかというレベルでしかない(幸か不幸か浪人も留年もしていない)。残った問題を、いかにこの先ポジティブな言説で探求していくかが、とりあえずの結論です。
もう少し、自分について正直に語っていきたい。