やばいぞ残業が 生きるってことはタイヘンだ

今年に入ってから一度も23時以前に帰っていません。おとといは1時半で、さすがに昨日は体がおかしかった。妙な吐き気とか妙な腹痛とか。

先輩に聞いてみました。
「こんなん、いつまで続くんですかあ?」
「おまえ、まだ始まってないよ」
「……」

まさにorzとはこのことです。

明日も出勤。今日だけなんとか休みを確保しました。でも今日も行っている人はいるし、明日もぼくのために出てきてくれる人がいるので文句ばっかり言ってられません。

しかし一方で同じ先輩から「おまえ入社した頃は『なんでこんなことやんなくちゃいけないんですかー!』とか言ってたのに、なにこんな長いエラーリスト全部つぶそうとしているんだ。完全に丸め込まれてるぞ。おかしいと思ったらおかしいと言え」と言われ、わーそうなんだー、おれってそういう風に見えるんだー、とちょっとショックでした。だんだんどんな難題ふっかけられても「仕事だから」という大義名分の元に無理してしまうんですよね、それが残業時間になってしまっているぼくはほんとうにまだまだひよっこサラリーマンというわけです。

ふと会社に着いた朝とかに思います。感情があるからつらいんだ、と。自分を機械なんだと思ってパソコンに向かっている方がよけいなこと考えずにすみます。それはなにかに負けたんじゃなくてそうしないとやってられないという防衛本能だと思いますよ、痛みを和らげるための。人間ってけっこう強いもんですよ。でもこれを読んだ人はやっぱり「しゃもぢも変わっちゃったなー」とか思うんだろうなあ。自分でも感じますもん、自分がいかにサラリーマンというものをなめていたかっていうのが。それがとんでもない思いこみだったってことを体で感じていますもん。そりゃあ考え方も変わりますよ、変えざるを得ないですよ。

一体人生哲学っていうのはなんにのもないところにあらかじめイデアとしてあってそれを金科玉条としなくちゃいけないのか、それとも自分の人生や生活の中から昇華されたものとしてあとからついてくるのかというと、たぶん両方のバランスなんだと思います。あんまりも人生をさぼりすぎていたぼくは頭の中だけでこねくりまわして理想論にばかり走っていたのだと思います(それはそれで面白いんだけどね、卒論みたいに)。それはやっぱり生活人(これは比喩)からすると砂の城、どんなに立派なことを言ったって「金を稼いで飯を食う」という大原則(もちろん大原則が通じない人はたくさんいますが私は庶民です)の前にはもろく崩れ去るもんです。太宰もそんなこと言ってなかったっけ。

でも具体的に会社生活からなにか学べていますか、小説のネタになるような具体的な問題意識をあなたはこの半年で得られましたか、と問われれば「ただただ、そんな余裕もなく流れすぎています」としか答えられない。

就職活動の時に本当にいろんな人からよく聞かれたのが「本当に仕事がつらいときにそれでもがんばれる理由って持っていますか」という質問。「なに言ってるんですか、仕事なんてできますから!」と、まったく苦労知らずの人生を送ってきたぼくは幼稚な全能感丸出しで答えていたんですが今になってあの質問の意味をかみしめています。じつに答えずらい。なんて答えます? 金? じゃあバイトでいいじゃん。なんで社員? 仕事とバイトの違いって? ほら、これも聞かれた。これが会社生活で誰もがくぐらなくちゃいけない門なんだろうなー。

でもたぶんこれは答えを選べる問題ではなくて問題を解いていくそのプロセス自体が答えなんだ、ということなのでしょう。またしゃもぢの詭弁が炸裂している感も否めないですが(笑) でも本当にそうだと思いますよ。答えがなければ解くしかないんですから、それを肯定してあげなくちゃ。

最近は下のCDを借りてきてよく聴いています。


テレビで昔の映像とか流れているとバックにその時流行った曲とかかかってるじゃないですか。ああいうのぼーっと眺めているの好きなんですよね。全共闘とかわくわくしますよね。とか言っているぼくを誰か精神分析してやってください。

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