火曜日、労働組合のもちつきに参加。後片付け参加のはずが「余ったもち米もったいないないから全部ついちゃって♪」と言われて二固まりほどこしらえる。自分でついたもちはうまい、みかんもおいしゅうございました。
水曜日、当然筋肉痛。某仕事に追われてゼロ時まで残業。正直、こんなもんしんどくもなんともなくなっている自分の感覚が正しいのかどうかわからなくなってくる。間違っていると信じたいがもうどうしようもない。甘えてはられない。
木曜日、引き続き某仕事に追われる。他の仕事にも追われる。もう仕事のほうがぼくのキャパを追い抜いてどっか先の方へ行ってしまっている。先輩曰く「年内に出来るところまでやっておかないと来年死ぬよ♪」忘年会のため六時にあがる。仕事終わらず。っていうか仕事に終わりなどないよ……(最近気付いた)。
金曜日、東京での研修のため朝六時起き。この研修のリーダー役を任されたため弁当代の回収でかばんの中は小銭だらけ、研修最後の挨拶を読み終わるまで(暗記したけどつっかえた)気が抜けず。四時半に解散できたのでその後、サークルの追い出しコンパに参加。「誰かと思った」「幸せ太り?」を連呼される。特に幸せではないが確かに太ったのだ。その後は友人宅に泊まる。東京に来るときはたいてい彼の家に泊まる。そしてこうして更新作業をしています。
それにしても飲み会で痛感したのは「場所」というのはすぐれて「人間関係」というものを含んだ概念であるということです。簡単に言えば、知っている顔が少なくなってくるとさびしいもんだなあ、ということかな。大学という場所に戻りたいと思っても、そう思ったときの「人間関係」はもうそこにはないんですね、自分がいないように。でもそれは必要なこと。「場所」は新しい要素によって更新されていかなければならないし、あるいはそうすることによってしか自らの価値を証明することが出来ない(こうやってノスタルジーを喚起することによって? まさか)のですから。でもそのことをちゃんと感じることが出来たのである種のあきらめ(これは良い意味で)はつきました。ノスタルジーは敵と思っていたけれど、大事なのはノスタルジーに現実を蝕まれないこと、です。これはぼくにとって大きな結論です。
うーん。
しゃもぢさんを追い出したのが、
ついこの間のような気がしてました。
あっと言うまですね、一年。
きてくださってありがとうございました!
でもあんまり喋れなかったですねー。
せいぜい私の酔っ払い姿をお見せした程度で。
私ももうちょっとで追い出されるのかぁ。。
と思うと、しみじみします。
何もらうんだろう。怖いなぁ。
おつかれさんでした!
ぼくは逆に追い出されたのがたった一年前だなんて信じられないよ。もっと、ずっと前のような気がしてならないな……。
また来年も行けたら行きます!
あー、なるほど。
それだけ充実してたんですねー一年!
来年か。。。きっとあっと言う間ですねー。
ぜひ来てくださいね!
私たちのことだから、きっとタダじゃすませません。
きっと何か面白いことすると思います。
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