恋愛小説の評価って……

島本理生『ナラタージュ』、読了しました。山本周五郎賞にノミネートされていたんですか? 確認はしていないんだけど。

こてこての恋愛小説でした。おもしろかったし、いろいろ思い出しました。大学生の話なので。

ただ、恋愛小説を読んでたとえば泣くっていう現象は、おそらく独立した作品世界内部で完結している物語に感応しているのではなくて、作品世界によって喚起された自らの過去の出来事に対して感情を揺さぶられているのではないのか? そしてはたしてそれはその小説固有の価値として認めていいのだろうか? といいうことを考えた。あ、ぼくは最近の本屋の店員みたいに泣いてないですよ。

「ナラタージュ」っていうのは「映画などで、主人公が回想の形で、過去の出来事を物語ること」(本の表紙より)らしく、この小説自体が過去の大学生時代にこんな恋愛をしましたっていう思い出話の体裁になっている。

だからよけい、読み手は自らの恋愛体験を喚起されてしまう。そうして書かれた小説はエキセントリックな筋よりも、誰もが経験するであろう三角関係とか境遇の違うもの同士の恋愛とか、そういういかにもって感じの筋を選ぱざるをえない。なぜなら、喚起するためには共感させなければならないから。「ああ、自分もこんな思いをしたことがあるシクシク……いい小説だなあ」という風に。

齋藤孝ばりにこれを「喚起力」と名付けてみると、果たしてそれは小説の価値として立項されるものなのだろうか? 小説が持つ一つの「力」としては認められるだろうけれど、本当にそれが作品固有の価値として認められるかどうかっていうのはちょっとわからない。それを通せば共感できない小説はすべて価値のないものになってしまう、極論だけど。

まあ、この話は自分でもあんまりまとまっていないのでこの辺にしておいて、この小説を読んでもう一つ気がついたことがあります。

それはいかにもパソコンで書かれたような文体だ、ということ。

たとえば段落の飛ばし方。けっこう断片的に書かれてあったものを後から並べたような感じがする。だから読んでいても流れに乗れない、あるいは最初から文章の流れというものが無いようなところがある。

それから会話。無駄にだらだらしてしまっていて、もちろん意図してだらだら書く作家もいるけれど、この小説は会話自体に意味を持たせすぎている上にだらだらしているので、ちまたによくある「小説の書き方 会話編」の悪いお手本のように見えてしまう。

物語の筋自体も、最後の最後で急いでピリオドを打っちゃった感じ。場面場面の設定やときどき出て来る「気の利いたセリフ」はいいんですが。

アマゾンのレビュウにも書いてあったんだけど、この小説のすごいところはやっぱり21歳の大学生の女の子が、大学生の恋愛を回想の形で描き切ったというところにあるのかもしれません。それはやっぱりすごい。こんな長いのわしゃ書けない……。

そんな感じで『ナラタージュ』、けっこう売れているみたいなので一読三嘆するのもいいやもしれません。

今日は仕事がお休みです。合コンに行くらしいです。

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