全体と部分とを往復する

たまには師匠のお言葉から一つ引用。

理解することは、たんに部分から全体へ向かうことではありません。単語だけ知ってても文章は読めません。部分と全体をつなぎ合わせて両者を往復できてこそ本当の理解です。
――霜栄・内野博之『現代文 解法W-ファイル』

いま書いている小説がちょっと行きづまっていて、ちょっと今日メモ帳にプロットを書き出していじくってみたら意外にも新たな筋を思いついてしまい、さらには勤労実習中ということもあって、もしかしたら小説を書くことと鉄を造ることとの間に今日の題名のような共通項があるんじゃないかと思い至ったわけです。

結論から直截に言ってしまえば下の図のような感じです。

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JR西日本の脱線事故に関して、現場の運転手がどれだけ苦労しているのかを上の方の人間はもっと知ってくれという内容の投書を新聞で読みました。そう、確かに現場は大事。現場がなければなにも動かないしなにも生まれない。

けれどあまりに現場第一主義を貫くのもおかしいと思う。就活中に聞いた言葉で、どこで聞いたか忘れたんですが良い意味でも悪い意味でも印象的なものがありました。

「現場の声が大事だってよく言うんだけど、それは結局現場レベルの発想でしかない」

つまりぼくら総合職で入った人間は現場とは違うレベルの(ここで言うレベルはどっちが上でどっちが下とかいう比較の問題ではなくて、次元とか世界とか比較不可能な概念としてね、念のため)発想をしなければならない。

仕事のことはまだよくわからないので小説を書くということに当てはめて考えてみれば、たとえばプロットも構想も立てずに書き始めるとどうしてもあとでこうしておけばよかったとかいろいろ書き直したくなる部分がたくさん出てきてしまって無駄が多い。逆にプロットばかりに凝ってしまうと荒唐無稽になってしまい、実際に原稿用紙に書いてみるととんでもなくリアリティのない話になってしまったりする。

だから、原稿用紙に向かう時間とプロットをメモ帳に書く時間と、両方がやっぱり大事なんだと思う。今日プロットを書き出してみた小説は、実はずっと「現場レベル」での作業をしていて、あの語句をこうしようとかこことここの段落を入れ替えちゃおうとかそんな細かいことをぐちゃぐちゃやっているうちに「あ~、この小説読んでも面白くないな~」と煮詰まってしまったというわけ。

おそらくこの先会社でぼくたちは○○企画と呼ばれるような全体を見渡す部分に深く関わっていくことになるのだと思う。そのときに、逆に「全体」というレベルに偏重しないことが大切なのだろう。そのためにも現場レベルを知っておかなくちゃならない(そのための勤労実習だ!)、そしてゆくゆくは全体と部分とを自由に行き来できる視点を持つようになりたいですね。

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