大江健三郎はしばらくいいや

やっと『遅れてきた青年』を読み終わりました。も~、話の筋としてはそんなに難しいものではないんだけどとにかく文体がこれでもかっていうくらい大江節で、疲労困憊気味です。

「東京と性交したい!」とかいうのはバタイユの影響とかなんとか言われるらしいけどもうなんだかよくわからん。まあ、でも戦後世代(この場合は戦中に青年時代を送った人のことね)から全共闘までの精神史(と言ったら大げさだけど)を1960年の時点でちゃんと描いているっていうのはすごいことなのかなあ。

「おれにとって戦中派は、戦争の時代にはヒーローだったんだけど、いまは、きみの言葉でいうと、きみの好きな言葉でいうと、おれが情熱をたかめるたびに、アンチ・クライマクスの冷水をかけにくるのが戦中派だ、あの連中があらわれると、なにもかもうまくゆかなくなるような予感がするんだ」

こういう世代間の隔絶って終戦を挟んだからこそいっそう深いものになってしまったのかもしれない。今ぼくたちが「世代が違うなあ」と簡単に口にするけれど、そんな軽いものではなかったのかもしれない。大江が三島を、あるいは三島が大江をどう思っていたのかとか調べてみると面白いかもね。

個人的には前半の部落差別に関わる部分なんかが、会社で同和教育を受けたあとだったので興味深かった。後半はなんだか自分の問題としてはとらえることができなかったです。

三島ついでに読書論を一つ。

古典であろうが、近代文学であろうが、少なくとも一定の長さを持った文学作品は、どうしてもそこをくぐり抜けなければならぬ薮なのだ。〔中略〕時間をかけてくぐり抜けないことには、その形の美しさも決して掌握できないというのが、時間芸術の特色である。
――三島由紀夫「日本文学小史」

長くて難解な小説ってどうしても途中で放り出したくなるんだけど、そして最近は「自分にとってつまらないものは読む必要がない」なんて効率ばかり持ち出す読書論も多いけど、こと小説に関して言えば、やっぱり最後まで読まなければならないと思った。

ぼくの場合、読書は娯楽でもあると同時に次になにかを書くための布石としなくちゃならないから、最後まで読んでいないものにあれこれ言うのもアレだしね。

なにより、読みにくさって大事だと思う。それは、これまでの自分が知らない文体(スタイル!)に触れている瞬間なわけだから。高校の時の先生も言っていました、難しい本は読まなきゃ読めるようにならないってね。

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