自分のオリジンをどこに置くか

22年間生きてきましたが、どの時代が一番充実していたかと問われればやっぱり受験生時代だったように思う。大学時代を終えるにあたって、この四年間を振り返るととにかく不毛に次ぐ不毛で、無駄なことばかりやって、時間を浪費してばかりいたことが悔やまれてしかたがありません。もちろん沢山の人に出会えたそのことはもっとも多とすべきなのですが、自分自身がその出会いを生かしきれなかったという思いもあります。

ひるがえって、受験生時代。あの頃は携帯電話も持っていなかった、インターネットも知らなかったし自分で買えるものも今よりずっと限られていたし、自由な時間もずっと少なかったはず。いろいろな今で今よりも不自由で不足で不機嫌な時代だった。

それでも今よりずっと生活に密度があったというか、一日が始まって終わるまでにいろいろな刺激(もちろん多くは知的な)を受けて、やりたいことが今日一日だけで終わらなくて眠る時間がもったいなかった。明日を待つ間がもどかしかった。

たぶんそれは、ぼくがまだいろいろなものに慣れていなくて、いろいろなものを真に受けすぎていたからだとも思う。けれどむしろぼくはその感覚をなくしたいとは思っていない。

子どもっぽさとは、子どもにとっては克服の対象だとしても、ある種の子どもっぽさは大人にとって自分を見つめるのにどうしても必要なものだといえよう。(霜栄「ブラームスはお好き?」『駿台式! 本当の勉強力』講談社現代新書,2001)

ぼくもそんな年齢に達したということか。

もちろんそれは時間の経過という魔法によって多分に美化されているのかもしれない。けれど、美化されているからこそそれは理想となるのだ。自分だけのオリジン。もし長い時間を費やして生きていくことにいくばくかの意味があるとすれば、それは自分が一番懸命に生きることができた時代を常に標準規として今の生活を評価できることだと思う。まだやれる、まだやれるはずだ、という確信があれば大抵のことは乗り越えられるだろうし、その余裕があること自体にかえって焦りを感じることもできる。たぶん、今のぼくはそんな状態なのだろう。

しつこいけれど、村上春樹『ノルウェイの森』に出てくる「永沢さん」の台詞。

「もちろん人生に対して恐怖を感じることはある。そんなのあたり前じゃないか。ただ俺はそういうのを前提条件としては認めない。自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでやる。欲しいものはとるし、欲しくないものはとらない。そうやって生きていく。駄目だったら駄目になったところでまた考える。不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある」(村上春樹,前掲書)

この強烈な倫理観。単純なものほど強い。常に「永沢さん」のようにあることがどれだけ難しいかを、逆にぼくは体験しなければならないのかもしれない。

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