森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』

を、読みました。

森博嗣は、昔なにか読んであんまり合わなくてそれ以来全然でした。本書は、特段「キシマ先生」が主人公ではありませんでした。ただ、院生の「僕」を通して、生活にまみれていく自分と、静謐な研究生活を守っていくキシマ先生との対照をひたすら描いたもの。ただそれだけかと言われればそれだけなんですが、たぶんこういう理系の院生生活を描いた小説がこの世に一冊くらいあってもいいな、と思える小説でした。

あとづけっぽい後日談や設定のよくわからない強引さはむしろどうでも良くて(スピカとかいう凝った名前の女の子も特段、必要なかったような気がします。家庭生活が「生活」のすべてを意味しないと思うし)、ただなんというか、博士課程に進んでいくしんどさ・楽しさってこういうものだよな、というのがなんとなく伝わってくる。それだけでこの小説は大成功のような気がしました。修士にすら行かず、さっさと金の世界を大人の世界と勘違いしてキャンパスを、その時は意気揚々と飛び出していったすべての「元」大学生にとっては、小説で味わうだけでも多とすべきなのかもしれません。

二十代のある時期まではぼくもそうでした。さっさと稼げる自分になっていることがなによりも大事だと思っていました。さっさと人生に見切りをつけたい、自分の価値を給料で推し量りたい、あるいは年功序列というわかりやすさの中に安住したいというのが、学問から逃れる体のいい言い訳になっていたような気がします。それでもボーナスで文学全集を買い漁ったりする思い切りの悪さは引きずっていたわけですが。三十代後半にもなると、それぞれの進路がようやくひとつの選択肢だったんだと等価に思えてくるのが不思議です。自分に対する焦りが無くなったからでしょうか、それはたぶんもう若くないということの間違いない証拠なのでしょうが。もはや今からどうなるものでもないのですが。

そういう人生もあっただろう。こういう人生もあっただろう。そう思うだけです。

願わくば、ぼく自身の知らない院生室のような時間の過ごし方を一日の中にどれほど持てるのか、そういうことを考えてしまうこと自体がもはや「生活」ということなんでしょうが、せめて二項対立では生まれない発想を信じていきたいと思って一人、こうしてキーボードを叩いたりしているのです。誰でもない誰かに向かって。

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