横光利一『旅愁』(青空文庫)

を、読みました。

いや、さすがに大作家の長編です。未完ではありながら最後まで読ませる力量はさすがとしか言いようがありません。もちろんこの『旅愁』を今の時代読むことにどれほどの意味があるのかは読者個々人によってまちまちだと思います。もはや過去の作品と言い切ってしまう方面もあるのは確かです。

横光といえばやはり新感覚派の旗手と言いますか、川端と並び称せられることが多いはずなのですが川端がノーベル賞を取って何かこう古き良き日本の体現者のような解釈を、文学史上当てはめられてしまって以降(その向きには『雪国』とかちゃんと読めてんのかって感じですが)、新感覚派としての川端はいつしか色あせてしまい、作品のボリューム的にも圧倒的であるはずの横光も、戦後に国策文学の大将として糾弾されると誰も横光の名前を敢えて出さなくなってしまった……というのが、今に至っているという感じでしょうか。もちろん『機械』だの『頭ならびに腹』の冒頭などは文学教育として引用されることは多いものの、『上海』以降『旅愁』までの作品群が今どこまで訴求力を持っているかは残念ながら、文学部を出たぼくですら自信を持って言えない。

加えて『旅愁』の難しさは、その本文の成立にあって、今ぼくたちが本屋に行って手に取れるのは講談社文芸文庫か岩波文庫。前者は戦後出版の際にGHQから検閲を受けた後の、いわば当時の読者が広く読んだバージョン。岩波文庫が画期的だったのは、検閲前のテクストを文庫化し広く頒布したことによります。そして青空文庫は講談社文芸文庫版を底本としています。

登場人物はそれぞれ何かを象徴しています。東洋精神だったり西洋精神だったり、そしてその間に矢代と千鶴子を中心とした主人公たちがあっちに行ったりこっちに行ったりします。長編の前半は洋行先パリでの生活や男女の切った張ったが中心に描かれ、そりゃまあ戦前の話ですから金持ちの坊ちゃん嬢ちゃん同士の他愛もないくんずほぐれつと冷ややかに見る向きもあるようですけど、横光が実際に特派員として目にしたのであろう事物が見事に小説世界として結実しています。

後半はかなり物語スピードが落ちて、帰国した者たちの日本での話がメインになり、中でも祖先をカトリックに滅ぼされた矢代が、カトリックの千鶴子と結婚に踏み切れず煩悶する(最後の最後は結納まで行きますが)様が描かれます。矢代の煩悶はすごくて、雪山に本を携えてこもってみたり(そこに千鶴子もノコノコ行きます)、木に話しかけたり、父の納骨のために帰郷して山に話しかけたり、相当切羽詰まっています。その間にもさまざな帰朝者と議論を戦わせるわけですが(古神道と数学の関係とか??)、イメージ的にはドスエフスキーの日本版なのかもしれません。

繰り返しになりますが、議論を戦わせる場面がけっこう多く、物語の筋としてはそんなに波乱万丈というわけではないのです。それでも横光の、良くも悪くも大真面目に「東西精神の対立」というこれまた大きなテーマとがっぷりつよつに組んで、土俵際までじりじりと執筆期間十年ものあいだ戦い続け、未完というところで力尽きたのか、まだまだ戦うつもりだったのかわかりませんが、そこまで描き続けたというのはすごいし、読んでみればわかりますがちゃんとした小説になっています。人物は自然に、上野の界隈を歩いてそうな奴らだなと思えます。

横光の落としどころがどこにあったのかはよくわかりません。ちょっとヒントになったのは、上野の博物館で、西洋式の建築物の中に仏像などが並んでいる様子について会話する場面があります。それを「融合」とは言えないのでしょうが、一つの妥協点なのかと。それが同時に矢代が、千鶴子との結婚に踏み切る一つの象徴なのでしょうが、矢代自身、あるいは横光がそれを腹に落ちて納得していたかといえば程遠いような気もします。物語は最終局面で日中戦争に突入していくわけですが、その先はそれまでの二項対立のいわば止揚の可否/是非がもはやアポリアになり、戦争が、物語から推進力を奪ってしまったが故の未完なのかもしれません。

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