フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』(村上春樹訳)

を、読みました。

デイジーはそんなにいい女なのか? というのは愚問で、ギャッツビーは兵役にあった時の一瞬の人生の輝きを忘れられず、金と虚飾ででっち上げた自分の影で再び釣り上げたと思ったら、一瞬で奈落の底に落ちた……そこまでした「忘れられなさ」ってなんなのだろう? デイジーをそこまでいい女に見せてしまうものってなんなのだろう? っていうのが、最後まで引っかかる。

語り手であるぼく=ニックもいわば人生の折り返し地点にあります。作中で30歳の誕生日を迎える日は象徴的で、トムがデイジーとギャッツビーの「不貞」に対してブチ切れ、その夜にマートルは轢き殺され、ギャッツビーとウィルソンは銃で互いを撃ち合う。ニックにとって、語りのタイミングが事件の二年後だとすれば(語り手の時勢がどこにあるのかはもう少しちゃんと読んでみないと何とも言えないのですが)三十数年の人生の中で最悪の日であり、また彼自身言うように30代のその後の人生は「もう若くはないのだ」という尾ひれを常に抱えながら泥濘の中を孤独に進むしかないという予感に満ちている。

やはり考えなければならないのが、本作を隅々まで愛した村上春樹という作家が、やはり本作を繰り返し読むことを喜びとしているワタナベという人物を主人公に据えた『ノルウェイの森』という作品を書いていて、そのナラティブは37歳の「ぼく」が過去を語るという形式をとり、また村上春樹自身が『ノルウェイの森』を書き始めた年齢もほぼそれに相当するということ。なお『グレートギャッツビー』自体はフィッツジェラルド29歳の時の作品(これはこれですごい……)。

30歳、あるいは30代というものが若さとの別れであり、あるいは若さとの別れを恐怖する一つの時代であり、あるいはそのこと自体がなおも「若さ」の表象であるとしたらという一抹の希望も胸に抱きながら青春の最後の焼け野原を駆け抜けることの言わばマニフェストが、作家にとってそれぞれの作品の「意味」なのかもしれません。


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