堀江敏幸『戸惑う窓』

を、読みました。

のっけからこのタイトルに隠された一つの洒落──「とまどうまど」という言葉に「まど」が二つあることが明かされながらも、この「窓」をテーマとしてややこじつけな章もありながら、エッセイ風の散文が並んだ作品です。物理的な窓にも様々な種類があり、現実の窓をめぐる章もあれば、それを通じて何かを見る/見られるというまさにその二重性を巧みに比喩として扱った言ってみれば「窓性」をめぐる章もふんだんにあり、いつもながら読ませる文章が並びます。作者はかつてはやはりお家芸のフランス文学からの引用が多かったのですが今作はかなり日本の文学も引かれています。

それにしても窓という装置は、必ずなにかの風景を思い出させるものがあります。しかもそれは必ず本筋から外れた景色のはずです。なぜならぼくたち合理主義者は窓の外を眺めるという行為を必ずそれを目的的になすはずがないからです。たとえば大学の大教室で授業を受けていたときにふと見上げた秋の梢の葉がそよぐ教室の天窓であったり、あるいは出張の、しかも海辺を走る特急列車に乗ったときにふと手元の資料から目を上げて感じた海のきらめきであるとか、あるいはたぶんもう今はないのであろう喫煙車両の匂いも含めて──。そういうふとした瞬間の眺め、あるいはそれを眺めている自分の姿が、なにか物語の本筋から外れた踊場で思い出されることが多いように思います。だから窓の窓性というのが、すごく、時には胸を締め付けるくらい、この少し寒くなってきた外気も手伝って思い出を刺激するのだろうと思います。


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