を、読みました。
いよいよ戦後です。けれど、太宰の戦後がわずか四年で終わるということをぼくたちはもう十分に知っているので、冒頭を飾る「パンドラの匣」に登場する「ひばり」の高らかな新たな時代に向けた出発の宣言と、巻の最後の二つの戯曲に流れるどうしようもない諦念との落差に愕然とするばかりです。
「パンドラの匣」は映画にもなっていました。川上未映子の竹さんも良かったし、仲里依紗もマア坊のイメージそのまんまで、原作ファンとしても非常に面白く見た覚えがあります。
を、読みました。
当ブログの過去のエントリーによれば本書を初めて読んだのは2008年の夏。それからだいぶ間が空いてしまいましたが、再読の機会を得ました。再度読み返して思うのは、エッセイのようでいて、案外とアカデミックな記述になっている点と、それからなにより「宗教」がけっこう大きなテーマになっているように感じしまた。
解説で柳田邦男が水俣病患者の中でも宗教的な方向へ急伸していった緒方正人を上げていますが、まさにあそこにある、ある種の「危うさ」みたいなものともっとちゃんと向き合うことをしていかないと、人間の弱さとちゃんと対峙したことにはならないのではないかと感じています。決してこれは、ハンセン病の施設の中で宗教的に偏向していく人たちに対する「懐疑」を表明するものではないのですが、やはりそこにあるなにか……人の弱さみたいなものをちゃんと考えないといけないと思います。良い悪いじゃなくて、そういうふうになってしまうのが人間なんだ、という事実をもっとちゃんと認識しなくちゃいけいなというか、言い方が非常に難しいですが。「本願の会」については実は、ちゃんと一度勉強したいと考えているところでした。
ぼく自身は、例えば幼い子供をなくした経験があるわけでもないし、そんなことを考えることすら恐ろしいのですが、かつて、2008年の時に感じていた喪失感のようなものはだいぶ解消されたにしても、あらためて「生きがい」について自分に問いかける良い機会となりました。
を、読みました。
一人の作家としての宮崎駿について考えたいと思っています。一連のNHKのドキュメンタリーによって、ジブリを動かして自らの美学を貫いて作品作りをしてきた一人の男の姿が随分と以前に比較して明確に見えてきたような気がします。ナウシカやラピュタそれぞれの作品世界があまりにも壮大で完結しているため、宮崎作品というのはとにもかくにもまずは作品論から始まる事が多いのですが、そろそろ宮崎の作家論がひとつでもキチンとした形で理解しなければならないタイミングなのではないか、そしてそれに必要な情報も随分と出揃ってきているのではないかと思っています。
実は堀田善衞という作家についてはほとんど知りません。以前に『方丈記私記』を読んだのか読まなかったのか、それさえ忘れてしまいましたが、書架にあった気もするのですが今探しても見当たりません。鈴木プロデューサーも含めて、宮崎が堀田善衞に言及することは多く、そしてアマゾンで検索するとなんと司馬遼太郎と三人の鼎談もあったりするようです。いずれにせよ、「思想的」にずいぶんと影響を与えているようですが、本書を一読して思うのは、時評と言いながらも随分と戦争の色が濃い結果になっているということ。
1998年の出版ですが、戦争責任についてここまで同時代の評論を通じて訴え続けている作家というのもなかなかいないのではないか、あるいは、著者の亡くなる約半年前の季節が銘打たれた「あとがき」のタイミングによるものなのか……。けれど、おそらく戦争責任について、いつまでもウヤムヤにせず、「戦後」という言葉の後に続く数字がいくら増えようとも厳しい眼差しを変えなかったことが、たとえば宮崎のやや教条的な平和主義なりテクノロジーへの懐疑なりへとつながっているのでしょう。
継続的に考えていきたい課題です。
文春学芸ライブラリーに採られているのは知っていましたが、金銭的都合から古本で購入。どうでもいいですが、TBSブリタニカって、いまは阪急コミュニケーションズになっていたんですね。ウィキを見て初めて知りました。
本書は、森田療法に関わる三人の評伝です。倉田百三、森田その人、そして後継者であった(講談社新書の元祖『森田療法』の著者である)岩井寛。特に、後世の我々にとっては、既に学術的にきれいに整えられた森田療法の姿を手にすることができるわけですが、森田その人の生涯や、その療法によって人生を取り戻していった人々の半生を読むことで、森田がゼロから生み出していった、そして当時のアカデミズムからは程遠い場所で孤軍奮闘し、その後の後継者のめぐり合わせによって受け継がれてきた森田療法の始源に触れる感覚がします。
特に巻末の参考文献一覧は、森田療法と言えばこれ、という著作物が乏しい現代にあって非常に参考になります。一時期に比べて、精神医療に対する期待値のようなものが随分と薄れてしまって、それはつまり「精神科医」なるものがあまりにも大衆化してしまった結果なのかもしれませんが(それ自体は否定されるものではありませんが)、改めて言葉を読むことによって自分の人生を鍛えていくことの意義みたいなものを、若い人特有の病理に帰せず、持ち続けていきたいと思う次第です。
を、読みました。
ぼく、ずっと勘違いしていたのですが、これ、別にノウハウ本でもテクニック集でもないんですね。もっと、マネジメントというものの果たす役割の歴史的意義だとか、企業に限らず組織で働いて成果を上げなければならない時代になったのだとか、ぼくが思っていたよりはずっと視点ははるか前からはるか先を見通そうとしている本でした。中盤にちょっとテクニック的なことも書いてありますが、基本的にはマネージャーがなすべき役割が日々の実務からすれば随分と抽象的に書いてあるだけで、やっぱりこれを具現化していくのはぼくたち自身の日々の生活なんだなと、不意打ちを食らいながらも、裏道抜け道を求めていた身ではあるのである意味では王道を示されただけといえばそうなのかもしれません。
これが古典なのだとすれば、やっぱり「もしドラ」みたいな本も需要があるのは頷けます。読んでないけど。読んでみようかな。ドラッカーを読んで明日から行動が変わるわけではないけれど、頭の片隅には確実に引っかかる何かあって、それが、日々の行動を後ろの方からピアノ線で引っ張ってくれているような感じ。
それにしても新幹線で読もうと思ったのだけど、五分経ったら爆睡していて、訳文もなかなか頭に入ってこない。何なんだろ、これ。会社生活にやっはりぼくが向いていないってことなんだろうか。管理職の人はみんなこれ読んでるのかな??