ゴルフのことを考えると本当に心が折れそうになります。
「ゆっくり」を導入してなんとかしたいのですが。
また練習行かないとなあ……。
を、読みました。
近頃のテーマである「自然体」から派生して「無為自然」というキーワードが天啓のごとくひらめき、「それなら老子でも読んでみるか」と思ってアマゾンで検索していたら懐かしの著者の名前がひっかかり、まあ岩波文庫で明らかに本文よりも注釈がページ幅を効かせているのをウンウン唸って読むよりは、いっそのこと馴れ親しんだ色眼鏡を装着して老子と初対面するのもあるいは良いのかもしれないと思ってこちらを選びました。それでも、加島某の世俗化した老子よりはよっぽど上等なのではないかと…。
当の岩波文庫を見ていても思ったのですが、老子ってこれで全部なんですね。太古の昔、韓非子に手を出したことが有りますが、あれに比べたら本当に詩のようです。したがって、その代わりに一読しただけではよくわからない。何かエピソードや物語が登場するわけではなく、漢字の宇宙のようなものがそこにただ横たわっているだけ、という感じ(洒落ではない)。もちろん「道」について直接的な説明があるわけではないし、間接的な説明も特段すべて読むと多面的になるような仕掛けが施されているわけでもない。でも、ある読む者にとっては「バカボン」を連想させるくらいの自由度を持っているところがやはり「道」なんだろうと思った。
空白にも意味がある、とか繰り返し出てくる「樸」のイメージとか、「遅いが早い」みたいな逆の価値観を持ち出してくるところとか、もしかしたら色々なところで言われているスローライフ的な言説の源流はここにあるのかもしれません。それにしても解釈をいろいろと許してくれる書き方なので、やっぱりいつかは原文に遡って触れてみたいという気にもなってきました。自分なりの読み方というのも、作っていきたいなあ。
しかし何となく感じるのは、戦略的に逆のことを考える、みたいなことなんじゃないかと。意識を低くすることで自分のペースで成長を促す、とか焦るとどんどん仕事が遅れるからそんな時こそゆっくりと深呼吸して丁寧に物事を運べば逆に早く終る、とかその手の教訓を読み取ってしまいたくなります。本当は、老子もものすごい我欲や出世欲の強い人で、それを抑えるためにいろいろと苦労したのかもしれません。最初から枯れてたら「道」とか言い出さんわな。
を、読みました。再読です。
この本を最初に読んだ時のことはよく覚えていて、その時も夏で、代々木駅前の喫茶店で(それがなんの時だったのかは覚えていないのですが)この本を読むためだけにそこで時間を過ごしたのでした。ただし、その時の感想はあまり好ましいものではなく、「例えばこんな小説を新人賞に送ったら絶対にアウトだな」といささかの憤慨をともにして店を出たこともまた一つの思い出です。
確かに道具立ては古臭いし、バーを経営していた作者の経歴が見え透いているところなど、あまりこの著者らしくない脇の甘さが気になって、なんでこんな失楽園(もちろん日本の作家某氏の)の出来損ないみたいな小説を村上春樹は書かなければならなかったのだろうと、その後も随分と気になっていました。いっそ、どこかのインタビューで「あれはちょっと失敗作だった。むしろ『ノルウェイの森』にテーマとしては引き継がれた」ぐらいのことを言ってくれていてほしい、と勝手な妄想を繰り広げたりしたものでした。が、そんな記述はついに見つからず。
けれど、この小説を改めて読み返して思うのは、最後の夫婦の会話がずいぶんと前向きな形で終わっていることに、これは一つの違和感もありつつも、一つの救いがあるのではないかということです。もちろん一人称で描かれたこの小説のナレーションは徹頭徹尾、主人公の振る舞いの身勝手さ、あくまでも貫く個人主義のどうしようみない醜悪さを隠蔽しようとするものではあるのですが、それでもラストシーンがモノローグではなくダイアローグで終結するところに、ようやく安堵する読者もいるのではないでしょうか。有紀子の、何度も主人公の心を、いや、言葉をこじ開けようとする姿勢には涙ぐましいものがあります。
もちろん夫婦であっても、例えば相手の人間性を今更変えてやろうとか補完してやろうなんてことを考える人は少数派だと思いますし、そんなことは無理だとわかっているから夫婦というものを何年もやっていけるのだろうけれど、ある瞬間に生きるの死ぬのといったギリギリの先まで行っても繋がっていられることもまた夫婦であることの背理法的証明なのかもしれません。もちろんそんなこと、無いに越したことはないのでしょうけど。
男だったら誰でも島本さんみたいな存在はあるのでしょう。でも、現実に生きるぼくたちは再会はしないし、フェイスブックでたまに覗き見ては若い頃の気持ちを無理やり呼び覚まして、たとえば『国境の南、太陽の西』みたいな小説を開いてしまうのかもしれません。それでいいのでしょう。
ところで、今日、34歳になりました。
本はいつでも待ってくれている。最初に読んだ時から約一年を経ているけれど、ぼくの課題意識はだいぶはっきりしてきているし、もちろん限界も知っている。本を読むことで全て解決するわけでは決して無いが、ここに書かれてあることを明日から少しでも、すこしずつでも実践していくことができたなら、本をもう一度読む価値はある。もちろんその価値は本の方にあるのではなくて、読んでいる自分が活字によってその言葉や行動に変化をもたらしているそのことにあるのであって、「読む準備ができた」状態でこういう本を読むと、本当に一字一句が、砂漠で水を求めて旅する人が小さなオアシスで水源を認めたように、身体に染みこんでいく。
しかし本当に、立場が人を作るということももちろんあるけれど、それですら「自然体」でその役職を務めることで、その役職に新風を吹き込む様な、だれかが「芥川賞にとって意味がある」と言ってのけたように、そういう新しさを、もし今までのオジサンたちが縦割りの中で枠にハマって四角くなっているのだとしたら、すこしは自分ももたらすような貢献がしたい。したいしたいと言っているだけでは死体でしかないので、人に向かってどんどん言葉を発していきたい。いや、いこう。それを力むことなく、できるようになりたいね。自然体=その人らしさであり、その人のスタイルなのだとしたら、やっぱり現状維持をよしとするのではなくて、磨いていきたい、スタイルをブラッシュアップしていく、その絶え間ない運動をこそ、自然体と言えるような人になりたいね。
中原淳さん、もう一冊。こちらはケーススタディと銘打っていますが、どちらかと言えば対談集に近いです。『駆け出し〜』にも似たような言い回しがたくさん出てくるので、これも大きな文脈の中野一つの流れとして読み解いていくのがいいのかもしれません。この人のブログなども読むと結構面白いので、折にふれて読み返してもみたい。
まあいろいろ思うところありますが、突然変異の変身願望にとらわれることだけは気をつけて、じっくり、じわじわと効かせていきたい。人間そんなに急に変わるものではないけれど、どうしたら変われるのかを世界に対して質問しつづけていればセレンディピティはきっと来るだろう。でもそれだけを生きる糧にするにはあまりにも宝くじを買い続けるような人生なのでしょう。
かっこわるい自分を認めるということでもあるし、人からかっこ良く見られたいというプライドをとにかく捨てるということなのだろうし、でもその中から砂金のような何かを得たいという真摯な姿勢だけは忘れずにいるということ。敵をあえて作るということではないけれど、人から何を言われようが、自分が納得行くようにまずはもがいてみるということなのか。
このブログでもたぶん十年以上書いているのだから、仕事とはこういうことだ、みたいな記述も探せばあると思う。それをさらに推し進める。理解は敗北。わからなさに耐え続ける、そしてそれも一つの方法論だ。そしていま、ぼくは「スロー」というテーマを今年掲げているので、そういう視点からも、たとえば人が学習するとはどういうことなのかとか、人の変化とはどういうことを言うのかとか、自分を実験台にしながら考えていきたい。
まあそういう勇気をくれる本ではあります。それにしても光文社新書はサラリーマンの味方だね。
ああ、こういう本があるっていうのは本当に助かります。ぼくのために書かれたような本です、と言っても全然言い過ぎではない。
一度だけの人生ですから、企業のマネジャーとしての人生を選択する以外の道もたくさんあると思うんですよ。秀でたプレイヤーとしての才覚を最後の最後まで伸ばしていくという生き方もかっこいいと思いますし、むしろそれを是としてきたのがプレイヤーとして優秀になることをひたすら目指してきた二十代でした。人に仕事なんか任せられない、自分がまずなんでもやって見せて自分の能力がなんぼのもんかを見極めたい、常に自分が自分が自分が、という価値観でやって来ました。
マネジメントは技術なのか、曲芸なのか、あるいはプレイヤーという比喩をもう一度使うとしたらそれもまた一つのプレイグラウンドなのか、ぼくにはまだまったくわかりません。ただ、ここに書かれてある様々な事柄は、実務家としての自分を磨いてきた社員たちの葛藤をベースに響かせている点において、非常に実務的な指南書となっています。今までにはなかった教科書、というか、日経文庫に比べれば「実況中継的」な生々しさを帯びているには間違いないのでしょう。これを起点に、自分のスタイルを磨いていくことなんでしょう、ひたすらもがき苦しみながらその大きな海原を泳いでいくというまず出発点において、その覚悟をもう一度ぼくに問いかけてきます。
しかしここにもまた「いい人ぶりたい」「人に好かれたい」という気持ちを捨てること、という記述が出てきていて、本当に『嫌われる勇気』読もうかな……。
を、読みました。
いわゆる本家本元のPMBOKなどその片鱗も姿を見せないけれど、体系だった教科書とは違って、現場感のある「教え」が満載の本でした。心がけとしては、明日からでも使えそうな話が多く、参考になりました。ところどころ筆者のよくわからない共用のひけらかしがどうでもいい感じを与えますが(後半に行くにつれてそれが酷いです)、「外資系」がどうだかわかりませんが、純日本の企業の中でも充分に使えるネタなのではないでしょうか。
この中にも(リーダーは)嫌われる勇気を持たなければならない的なことが書かれていますが、本当にこの「嫌われる勇気」はキーワードとしても最近の自己啓発系の本にはあまねく広まった感じがします。悪い意味ではなく。別にアドラーがそう言っているわけではないんでしょうが、嫌われる勇気って、本当に大事です。それは、全体最適という「目的」をしっかりと見据えられれば、という条件付きであることはしっかり肝に銘じて置かなければならないんでしょうけど。あと齋藤孝的に言えば「上機嫌の作法」ね。
目的を常に意識し、意識させ、そのためには手段を選ばない、そんなところでしょうか。鬼のような殺意を持って仕事(人)に立ち向かうというのも、あるいはぼくのような軟弱者には必要なのかもしれません。
以下、復習を兼ねた備忘
・リソースが不足しているなら最初にそれを主張する
→安全を見て1.5倍くらいでふっかけておく
・難易度の高い場面でやり慣れないこと、初めてのことを決してやらない
→できることはできるやつに任せる、難しいことは若い奴と一緒に悩んで進める
・質問を通じて目的を意識させる、そしてそれは一日に何回でも
・もやもや一定の法則(相手が不安を感じていること、そのことを知っていると言ってあげる)
・横のつながりを促し、情報の流通量を増やす
→そのためにも上機嫌であること
・とにかく聞く
→相談を受け付けやすいと思われるように上機嫌であること
・進捗報告は進捗を報告するのではなく、進捗の中でその時時の結論を並べていく
・嫌われる勇気