村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

を、読みました。

本書にはそんなことは書いてありませんが、よく言われる「人生はマラソンだ」という言葉の裏側には必ず「人生は短距離走ではない」という言葉が張り付いているように思います。でも、そうではない。人生は、マラソンですらない。

それは、初めて見る映画のようにどこで終わるかわからない。スタートがあってゴールがあるようなシロモノではない。あと何キロなどと数えられるものではない。

人生は、いつ終わるかわからない散歩のようなものだと思う。逍遥だ。ぶらぶら歩きだ。立ち止まらないことが大事だ。歩き続けているということが、どんなにゆっくりでも、どんなに同じ場所をぐるぐる回っていたとしても、動き続けているということが大事なのだ。

景色を噛み締めろ。舌の上で何度も転がせ。味がなくなるまで噛み続けろ。大丈夫、焦っても焦らなくても、時間はたっぷりある。

実際がどうであれ、そんなつもりで日々を生きたい。

なんとなく、そんなことを思いました。


谷本真由美『キャリアポルノは人生の無駄だ』(四読目)

を、読みました。四回目。四回も読んでいるのに、実はこのブログで感想を書くのは初めてであるということに自分で気づいてびっくりしています。

「キャリアポルノ」はいわゆる自己啓発本。この本自体が、「自己啓発本は意味が無い」という自己啓発本なのだ、というもっともらしいダジャレはたぶんどこでも言い尽くされているんでしょうが、それでもなお、読ませるものがあります。定期的に読み返したくなります、特にこういう日曜日の夜なんかに。もちろんメッセージは明確だし、シンプルです。ミスチルが歌えば「誰の真似もすんな 君は君でいい」ってことなんでしょうし、小林康夫に言わせれば「ブリコラージュの自由」なんだろうし。今のあなたを否定する必要はない。今あなたが持っているものを組み合わせるだけでずいぶんと幸せになれるはずだし、いわゆる「成功者」の真似なんかする必要なんてない、そもそもあなたは「成功者」になんてなりたかったのか??

キャリアポルノを読んで、他人(成功者)の真似っこをしようと頑張ることは、つまり、自分本来の考え方や、やりかたを否定してしまうことなのです。自分を否定するということは、自分の両親、兄弟、姉妹、出身地、育った家、好きなアニメ、好きな食べ物、嫌いな虫、先祖、思い出などを否定することです。〔中略〕「私は私、これとこれが私をつくっている、そういうものに囲まれた私は、出来る範囲で自分の生活をどうしたら楽しくできるか?」と考えるべきなのです。

amazonのレビューなんか見ていても賛否両論激しいです。そして一つ星から五つ星までがほぼ平行に並んでいます。この本を貶すことで自分を強く見せたいのかもしれないし、この本に共感する自分をさらけ出すことで「正直なワタシ」を演出したいのかもしれない。でももう一度、いや、四度くらい読んで冷静に、クールに、作者の一文一文を噛みしめれば、そんなに感情的になる必要なんて無いことに気がつくはず。


オウィディウス『変身物語』

を、読みました。

これもまた平野つながりですが…ローマ的解釈によるギリシャ神話、というか、ローマ神話というか。正確にどう言ったらいいのかはよくわかりませんが、神話の中から「変身」にまつわるものをとにかくかき集め、一つの叙事詩として編纂されたものです。大物の神様は何度も出てくるので覚えられるのですが、中小の神様が何度か出てきては引っ込むので、たぶん一回では読み切れていない感じがします。気がついていないつながりが幾つもありそう。

訳者解説にもありますが、下巻の最後になって突然ピタゴラスが出てきて「万物流転、盛者必衰の理」みたいな長広舌をおっぱじめるのですが、それが要は「変身」の総括でもあるんですね。そして極めつけは、作者自らがこの作品によって得られる自分の名声は永遠だと言い切ってしまうところ。詩人はこの一大叙事詩編によって永遠に変身するって…お後がよろしすぎる結末にかなりずっこけてしまいました。

ナルシスの話など有名なギリシャ神話はかなり含まれています。むしろ変身物語を読む前にギリシャ神話原典にあたったほうが正当な読書なのかもしれませんが。


菊地成孔・大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー』(キーワード編)

を読みました。

「歴史編」が前期講義で、この「キーワード編」が後期という作りになっています。本書の方は編年体ではなく、言わば紀伝体というか、その名の通り一つのキーワードをめぐって講義と対談が繰り広げられる、という内容になっています。

最終回は意図的に超難解になっていますが、ダンスも即興もなかなかおもしろく読めました。特に言及はありませんが、ダンスも即興も舞台芸術に通ずるものがありますし、インプロビゼーションというとぼくなんかはジャズよりは演劇を先に思い浮かべてしまうのも何か偏見があるのでしょうが、そのあたりの対比なんかも考えてみると面白いのかもしれません。必ずどちらかがどちらかの比喩にしかならないんでしょうけどね。

あと、音楽ってそもそも何なのだろう? という疑問に行き当たるとけっこうわけがわからなくなりますよね。ただ、音、それは単に空気の振動でしか無いはずなのですが、それがある組み合わせになると和音として美しく人間の耳に響くのはなぜなのか? というか、むしろ逆で、人間が美しいと感じる組み合わせを和音と言っているにすぎないのですが、それは人間の耳の構造上どういう理屈でそう感じてしまうのか、とか考えだすと奥が深い問題です。たぶんこの本に紹介されているキワモノの(ノイズ・ミュージックなんかそうでしょうけど)曲達を耳にすれば「なぜこれが音楽なのか?」「なぜこれを音楽と感じてしまうのか?」「人間が音楽と感じなければ音楽ではないのか?」とか、そういうそもそもの疑念に結構行き当たるような気がします。

本書はジャッズにとっての「のだめカンタービレ」を目指さない、むしろ逆だ、と言っている後書きが清々しい。それは確実に成功していると思います。


平野啓一郎『葬送』

を、読みました。

読みました、とか言っていますが原稿用紙にして2500枚の長編です。ゴールデンウィークを費やして一気に読みました。こういう小説は一気に読まないとなかなか面白みがわからないものです。

冒頭にショパンの葬送の様子が置かれたあと、第一部、第二部を費やしてショパン、ドラクロワ、サンドを中心に革命前後のパリを舞台とした人間模様が描かれます。第二部は特にショパンの死までを丁寧に追った「物語」にもなっているので、死の場面まで来るとけっこう「ああ〜、ようやくここまで読み進めたなあ」という感慨にふけってしまいます。

ぼくはこの三人を並べられても誰一人史実に即した事実関係についてほとんどなにも知らないので、この小説のどこまでが事実でどこまでが空想なのかはわかりません。ショパンの死因もよくわかってないですよね? あと、脇を固める登場人物もたくさん出てきますが、創作上の都合で出てきた人物がどれほどいるのかもわかりません。

ただけっこう主役の三人以外、特にクレザンジェや、ドラクロワの秘書のジェニーなんかは生き生きと描かれていて、一方でショパンは主役を張るはずなのになんとなく最後まで薄いカーテンの向こうにいる感じがします。直接の感情描写が少ないからでしょうか。一次資料が書簡くらいしか手がかりがない上に、これまでの色々な史実とされている枠組みの中でしか動けないので、かえって主役三人のほうが描写が難しいのかもしれません。そんなの知ってるよってことを書かれてもしょうがないですしね。

ただ、なんとなく、芸術家を描いている割にはいちいち考えていることや会話が「いかにも」であったり、案外と下世話であったりして、神々の遊び、と言うよりは、かの大作家たちも人事関係に悩んだり、昔の人のことが忘れられなかったり考えていることは案外、現代人と同じなんだ、という印象を受けます。

というか、それが作者の意図するところなのかがいまいちよくわからないのも正直なところ。

特に日本語のことわざが当たり前のように会話の中に使われているのとか、比喩がいまいちあの時代にそぐわない感じがするとか(やや普遍的すぎる表現が多い)、あくまでもこれはあの時代の人物関係を借りた現代小説なのかな、という感じがします。

そしてそういう分析はいくら出来ても、やっぱり作者がこれを書いたのはひとえにショパンへの愛だけなのだろうか? というのがいまいちよくわからない、というのは変わりません。いや、それだけだというならそれだけでいいのかもしれないのですが……。

とにかく長い時間かけて読んだ割には裏表紙を眺めて「何だったんだろう、これは?」という気持ちになんとなく苛まれます。奇しくも三島を評した表現に「豊穣なる不毛」というのがありましたれど、それに近い感じがあります。これだけの字数を費やして作者は一体なにをしたのだろう?

今もって評価が難しい作品だと思います。作者自身はいろいろ意気込んで初期ロマンチック三部作の最後を飾るものとして位置づけているようですが、『日蝕』『一月物語』と並べられても、ちょっと分量的にも三部作というにはアンバランスです。その違和感というか、突然この分厚い本(たぶんこれは小林秀雄全集と同じ紙を使っている? けっこう薄くて良い紙で、普通の単行本の感覚より数段長いです)を本屋で見た時に感じた、平野は一体何にそんなに意気込んでこれを書いたんだろう? というのが最後までいまいちよくわからなくて、戸惑ってしまいます。

当時の文学界隈もそうだったのではないでしょうか? 本作で特に賞も取っていないし(長さから言って谷崎賞でも取りそうなのに)、誰も正当に評価できる人がいなかった、まあ塩野七生あたりが「いいんじゃないの」と言ってくれれば、当時はまだ新人だった作者も、これくらい書けるなら文壇の仲間入れさせてやろう、みたいな免状として機能した、と言ったら言葉が悪すぎますか。まあ、少なくともデビュー作から読み進めている者としてはものすごい戸惑いがあったのは間違いありません。もちろん次は何をやってくれるんだ、という期待も込めてだったのですが。

個人的には当時高校3年生だったぼくが、この第一部が「新潮」に掲載されたのを勇んで買いに走り、大学受験のまっただ中だというのにむさぼり読んだ時も、正直な感想は「擬古文の次は大時代翻訳文体か! なんでもできるな、この人!」という感嘆でしか無く(特に土地の関係で奔走する有様はロシア文学そのものという感じがしました)本人は否定するのでしょうが、まさに文の「芸」、文芸という印象でした。まあでも今読むと、一つ一つの文章は端正にまとまっているし、長いだけで、すごく読みやすいと思います。

ということで、つらつらと読後感を書いてきましたが、本気でこの作品を専門的立場から考証した記事であるとか、まともな書評であるとかがなかなか見つからないのでそれもなんでなのかなと思いましたが、特に作中でドラクロワの声を借りて「批評家」についてさんざんけなしていますから、なんとなく最初からこの小説自体を「批評」することの口が塞がれているというか、”莫迦”なこと言ったらただじゃすまさんぞ、みたいな気迫がみなぎっていて……こちらの”莫迦”もバレない程度にそろそろ筆を置きます。

まあでも、結局は好きでないと書けない世界なんだと思います。


SUSAN SONTAG:The Complete Rolling Stone Interview

ソンタグだけはその全ての言説に触れたいと、常々思っています。未邦訳のため、インタビュー集ということもあり平易な英語と期待して購入。辞書を引かずともざっと読むことができました。

インタビュアーのジョナサン・コットという人は、ぼくはよく知らないのですか、コロンビアカレッジ時代に、あるいはその後進学したカルフォルニア大でソンタグとの交流があり、この本自体はローリングストーン誌の編集者としてソンタグへ長期にわたってインタビューを試みたもののようです。頭からお尻までずーっと質疑応答が続いているのですが、複数の期間にわたって掲載されたものをあえてそういう風に編集しているのでしょうか? 日付も特に無いので、そのへんがよくわかりません。

ただ、内容は、彼女の全ての創作に及び、特に『隠喩としての病』や『私、エトセトラ』を中心にかなり盛り上がっています。笑い声が聞こえてきそうなくらい。子供の頃の読書体験だとか、けっこう身近に感じられるくだりもあります。あと、コット自身が相当ソンタグの本を読み込んでいて、あそこでこう言っている、ここではこう言っている、というのを気持ち悪いくらい引用してくるのですが、ソンタグはソンタグでその時はそう思ったからそう言ったのであって、すべて辻褄が合うようにはなっていないし、そういうことを言われるとイライラするとか、結構自由に発言しているのもなかなか面白いです。

ソンタグの本では小説のIn Americaが未邦訳のため、これもさすがに原書で挑戦かなあ……と思っているところです。日記の刊行もいいけど、なんで全集が出ないのかね??