菊地成孔・大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー』(歴史編)

を、読みました。

最近、平野啓一郎のポッドキャストをよく聞いています。この番組は「一応」、音楽番組ということなので平野氏が色々と自分で選んだ曲をかけていくわけなのですが、当然ながらpodcastでは権利の関係で曲部分はジングルで代替されてしまっています。たまに気になるものはyoutubeで探して聞いたりもしているのですが、なんといってもジャズの割合が比較的多いです。往年の名曲から最近の実力派若手のものに到るまで幅広いです。

それで、ジャズについてはなにも知らないのでなにか取っ掛かりで参考になりそうな本を探していた時に、前々から気にはなっていたのですが、菊地成孔による東大でのジャズ史講義録があったなあ、と思い、今回チャレンジしてみました。講義録なので読みやすいのですが、そういう感想は、文庫版後書きで見事に裏切られます……。

著者自身が言うように歴史はいつでも偽史であり、これもまた一つの私史には違いないのでしょうが、取っ掛かりをスタンダートな正史から入るよりも、少し偏向したところから足を踏み入れるというのも、楽しみの一つだろうと思います。ジャズに関しては雑食的にこれから色々と読んだり聴いたりしていきたいなあと、思っています。

それにしても2004年の講義録ということで、ぼくは当時駒場にいなかったものの在学中の講義録なので、生を聴きに行けたはずだったのがなんとも、なんとも、口惜しいものです。13号館の大教室とかクソ懐かしいな!


小林康夫『君自身の哲学へ』

を、読みました。

目次を見た時、この本は、他でもないぼく自身に読まれるために生まれてきたのだ、などと思ってしまいました。それくらい、ピンとくるキーワードに満ち溢れていたのです。「スタイル」「村上春樹の井戸」「砂の女」「カフカ、掟の問題」「変身物語」──それらは、かつてのぼくが悶絶するほど真剣に考えていた問題の周囲に飛び交っていた、つかめそうでつかめない答えであり、あるいはそれを示唆するヒントでした。

なによりも、ブリコラージュという自由についてのくだりは示唆的でした。自由の意味とは、自らに与えられた環境の中で、手近にあるものを組み合わせる遊びの中から、思わぬ収穫を得ることである──それは、自由を、すべての人々、すべての事物を自分の思うがままに操ることだと勘違いしている人びととは全く正反対の概念です。ブリコラージュの自由は、実際に誰にでも実践できる、ということが大事なのだと思います。遥か彼方の自由を夢見るのではなく、いまあなたのすぐ近くにある様々なものに目を凝らし、それを例えば全く新しい組み合わせでコラージュし(組み合わせの新しさこそが、今の時代ではクリエイティヴィティと呼ばれるべきなのだと思います)、その目的を度外視した遊びの中から思わぬ「出来事」を紡ぎだすこと。それは、いま、まさに今この場所から実現可能なのです。ぼくたちは自由なのです。これは、読んでいて、一陣のさわやかな風が頭のなかを吹き過ぎるような、そんな感覚になりました。

正直、小林康夫氏の業績についてはまったく蒙いぼくですが、語りおろしを元にしたからこそ、すっと心に入ってくる文章が、とても心地いいです。この著者にして、全くもって若々しいというか、若い人たちが読むべき本だと思いました。大和書房、さすが!


スティーヴン・キング『書くことについて』

を、読みました。

キングの小説は、実は一冊も読んだことがないのですが、この本はそんな読者でも楽しめる本です。この本を読み終えた時、物語を書きたくなります。

白い紙。新しいファイルの、真っ白な画面。この本にも出てきますが、やや古い言い方をすれば、新しいフロッピーディスク──今ならさながら新しいUSBメモリ? を前にした時、恐怖よりもワクワク感が蘇ってきます。むしろ、この本を読んでいる途中から「ああ、早く読み終わって、白い紙に向かいたい!」と、思わせてくれるいい本です。

前半はキング自身の半生を描きながら、書くことについて筆者がいかに立ち向かってきたかその軌跡が描かれます。そこに悲壮感は全く無く、やれば出来るんだ、練習すればうまくいくんだ、という自信に満ち溢れています。そしてそういう自信を持つことが大事なんだと教えてくれます。

後半では、副詞の多用や受動態を戒めたり、クリアーさとシンプルさを目指すための実践的な実例だとかを紹介してくれたりと、実作上のコツを色々と伝授してくれます。こういうのもある、こういうのもある、と羅列するのではなく、キングの小説観に根ざしたものなのでとても説得力があります。なにより、第一部で描かれた半生に基づいた小説観になっているので、ますます納得感があります。

以前この本は『小説作法』として単行本化されていましたが、あれから増補された10周年記念版として再発されたものです。以前の本も読みましたが、あんまりピンとこなかったものです。そのときのぼくはさほど、どうやって書いたらよいのか? ということに問題感を持っていなかったのかもしれません。求めるときに与えられる。求めなければ与えられた時に吸収も出来ない。再読の喜びというのは、そういうことなのでしょう。


よしもとばなな『王国』その1〜3

いったんこれでインプットは終わり。

もちろんこの『王国』シリーズはその3で終わってはいない。そこが、今ままでの作品と違うところだ。次を感じさせる、というか。その3では、主人公が別れを経験する。ここまで長く、出会ってくっついて別れるというところまで描いた小説はばななには珍しい。そして、その別れは、もう最初から相手と自分はぜんぜん住む世界が違っていて、たまたま似たような境遇で似たような気持ちを抱えていた時にたまたま出会ってしまってつかの間それを恋愛と勘違いしていた、というような。ばなな自身も、インタビューで下のように言っている。

ほら、よくあるじゃないですか、社員旅行だの歓送迎会だので急にいちゃつきだす男女とか。広い大きな意味で言えば、同じようなものかもしれないですよ、雫石と真一郎は。お互いに自分たちの設定を変えたいときにたまたま出会って、でもお互いの役割を終えたから別れることになる。でもその別れはきれいごとでは済まなかった――そういう話かもしれないです。(「波」2005.12)

うまい例えだな…。

要は主人公雫石にはまだまだこれから先に大きな物語が待っているというようなことを、それを言うためだけの小説だったような感じもする。それは、親という立場になったからならではか? それは言い過ぎかな? 雫石の子供っぽさへのついていけなさみたいなものは、今までの主人公とは少し違うと思う。その子供っぽさというのがつまり王国=箱庭の中で純粋培養されたような感じを言っているのかな。

三十代という問題に戻るなら、この作品を書くことで、よしもとは別にぼくたちが期待しているように三十代を総括しようとはしていない。むしろ自分が親になる四十代への大きな準備として、ひとつのオープンクエスチョンとして置かれたおおきな布石のように思います。しかしてその4は雫石の娘が主人公になるわけですが…その間がだいぶすっ飛ばされているような気もするけど、それはいつか書かれるのだろうか?

『海のふた』とテーマを同じくしているという発言からすると、結局「自分次第」というところに行き着くのかも。自然と調和した生活を送ろうと、送るまいと(その最右派が都会生活なんだろうけど)自分の王国を築くことでしか人はやっていけない、ということか。そして高橋くんの庭というのは、この小説で唯一、「王国」という言葉が出てくる箇所なんだけど、そういうことを小説的な仕立てで見せてくれる箇所として生きているのかもしれない。人びとの「王国」同士が刺激しあう。そういうのが人が生きていくことだろうし、また人が自然と対峙するときの一つの正しい態度なのかもしれません。雫石の職業なんてまさにそういうことだよな。

そして、まさに雫石という作者にとってもよくわからない、幼い存在がそういうことに気がついていく過程を描いているということが、三十代の総決算としての意味合いを持つということに……無理矢理ですが、つながるのかも。それはもう親目線なのだ! 雫石だけは「知らない人にインタビューする」感じで人物造形がされるいっぽうで周りの男達が作者の男性的な分身であるとするならば、『王国』に導入されたテクニックとして、新しいものがある。作者のキャリアとしては自分のよく知っている人を登場させる作品を書いてきたところから、『身体は〜』で知らない人を登場させてインタビューしていくように小説を書き、『王国』でその2つがミックスされている。しかも、それは「人が生きていくことは、王国=庭・箱庭を作っていくことだ」という一つのテーマを持って、人と人が交流していく様(しかもどうしようもない別れまで含めて!)が描かれている。

しかし「王国」って結局は「キッチン」なんだよな…。

というところで、そろそろアウトプットにとりかかる頃合いのようです。


ジェラルド・M・ワインバーグ『ワインバーグの文章読本』

昔、出版社に自分の書いたものを送った時に「不採用通知」として返送されてきた中に(たしか大和書房だったと思う)、本書とキングの『小説作法』を読んだらいいというアドバイスが書かれてあった。その時買って読んだのだけれど「自然石」というのがあまりピンとこなくてそのままになっていた。でも、エバーノートを駆使して小説を書いている最近となっては、ここに書かれてあることがよく分かる。もう一度、謙虚になって、心を沈めて、本当に書きたいことを書くために、書くことの喜びをもう一度味わうために。助走。