月別アーカイブ: 2015年1月

よしもとばなな『こんにちわ! 赤ちゃん』

を、読みました。怒涛のばなな研究月間です。

WEBに掲載していた日記の文庫編集版です。本当はもっと前後に巻があるのですが、出産経験はけっこうターニングポイントになっているはずだというスケベゴコロからまずはこの巻から通読。

個人的には、産まれるまでのまだかな…まだかな…という感じが結構追体験できました。この時期(2003年〜2004年)はけっこうメディアに出ていたのでよしもとばななの「結婚」の形であるとか、お産に対する考え方、人間関係に対する考え方はテレビを通じてもよく知れ渡っているのではと思いますが、あらためて読んでいると元気が湧いてくるというか、こういうエネルギーに満ちた文章が書けるというのはすごいと思います。自分がダメだと思うものはダメだというし、いいと思うものはいいとはっきり言う。決して、ダメだというのも自分の考えが百パーセント正しくでソイツが絶対に悪だ、と言っているのではなくて、こういう考えに基づいている自分にとってアンタラの言うことは全く受け付けないから、自分は少なくともそう思うからこれ以上関わるのをやめます、と言っているにすぎません。そこが潔いというかね、なかなかそういうニュートラルな感じでダメなものはダメという姿勢って貴重だと思います。文章で誤解なくそこまで伝えるのって、難しいものだと思います。ちらほら出てきますが、お金を貸して返ってこなかった裁判とかもこの時期重なっていたようで、日記とは言いながら公開しているものなのでこまかい野次馬的なことは書かれていませんが、何度落ち込んでも回復してくる、あるいは回復する身体の力を信じ抜く著者の姿勢には、頭が下がります。

吉本ばなな『ハチ公の最後の恋人』

再読。

新興宗教を舞台としていますが、基本的に恋愛小説です。ただ、吉本ばななの恋愛小説って必ず家族的な愛と直結しているところがすごくいいといつも思います。逆に家族という形式にもともとあった人間がいちばん家族らしくなくて、友達やふと知りあった人が擬似家族としてしっかり機能しているところが、この小説でも著者の独壇場としてぞんぶんに表現されています。

で、殊、この小説は、自分との和解というのがすごく大きなテーマである気がします。親が誰なのかもよくわからない、自分の家も他人が出入りしていて(これは吉本隆明がそうだったらしいんですが…)落ち着けないという主人公。そんな自分が一番自分らしくいられる相手が、ハチだったし、そういう関係を家族関係とすればいいんだということをハチとの付き合いの中から学んでいきます。ハチが最終的な相手ではなかったけれど、ハチのような存在を見つければいいのだと決心できたところが、この小説のラストシーンと言っていいでしょう。けっこう、最後の最後は去る者は追わず、みたいになっているし。そういう始まりの終わり、みたいな感じで終わるところが爽快で、本当に文章と文章のあいだをびゅうびゅうと爽やかな風が吹いてくるのを感じる、そんな小説です。

だって「私の最後の恋人」がハチだなんて、誰も言ってないのだから。
もっといいことがたくさん私を待っている。誰も予言したりしないから手探りだけど、最高にすばらしいこと。ハチといたときみたいに面白くて仕方ないことが。
目の前にいない人のことなんか、知らない。
ハチを愛したように、誰かをいつか愛するけど。

デビッド・スミック『世界はカーブ化している』

を、読みました。

題名は、特に邦題だからそうなっているわけではなく、原作からして『フラット化する世界』を充分に当て込んで書かれています。けれど、金融の世界でのグローバル化、および一連のサブプライム・ローン問題について論じている内容は、金融もフラット化しているということではなくて、その逆。先がまったく見通せない状態のことを、著者は「カーブ化」と言っています。

『フォールト・ラインズ』にも似たような記述がありましたが、アメリカ人の心性として、かつてはお金持ちに対する見方というのが「いつかは俺もああなれるんだ」という自分の生活と地続きの感覚があったようです。それがまさにアメリカンドリームということなのですが、昨今は逆で、「あいつらばっかりカネ儲けやがって」という感覚が大勢を占めるようになっているそうです。だから富裕層に対する税制の議論も、前提となる一般市民の富裕層に対する距離感によってだいぶ違ってくるんでしょうね。

アメリカというのは、金融の面でも感じますが、城壁に守られた一つの国というよりは、やはりみんなが参加できる一つのフィールドというか、ある程度の参加費を払えば参加できる広大なゲームのようなもので、プレイヤーはそのゾーンの繁栄を一つのゴールとしてルールブックを書いていく、という非常に特殊な場所なんだと思います。そしてその場所の持つ性格が今や、通信の発達によって世界中に散在するようになった、日本の主婦でもアメリカというゲームに参加できるようになった、というのが現状なのでしょう。

フィールドは、今や四角四面の白線で区切られたコートではありません。まさにカーブが続く巨大な迷路なのかもしれません。一つの信用不安が何倍にもレバレッジされて地殻を震わせる──そんなことが平気で起こるようになっても、著者はやはり自由主義の良い面を見ようと努めます。悪いことへのレバレッジが効く分、良い方向にもこの金融のグローバル化というやつは働いてくれるのだと、信じて。

個別に色々と読むべきところもたくさんあります。今どうなっているかわかりませんが、新生児に確定拠出年金を付与して老年までのあいだに投資運用をしてもらったらどうかとか、日本の大蔵官僚や政治家との色々なエピソードも面白いです。

よしもとばななについて再び考え始める

故あって、よしもとばななにとって三十代とは何だったか? について考え始めている。

書誌的なことから言うと、まず簡単に手に入るまともな年譜というのが、ない。wikipediaにすらない。
いろいろ検索をすると数年前に雑誌「文學界」で『ジュージュー』が出た際のロングインタビューで年譜が掲載されているらしい。こんなものすぐに確認できない。それから鼎書房から出ている現代女性作家の研究書シリーズで(そんなシリーズがある事自体驚きなんだけど)よしもとばななの巻があって、これに年譜が付いているらしい。

画像すらないが、存在はしている。これも図書館にしかないような本なので、けっこうアクセスに手間がかかる。どうしよう。

さいわい、以前購入した『本日の、吉本ばなな』には2000年までの年譜は載っている。だが1964年生まれの著者にとって30代を終えるのは2004年であり、非常に惜しい。まあ、使えるところは使っていく。それにしても2000年が15年前だということにいまさら驚く。驚いてばっかりだ。

で、とりあえず彼女のキャリアを総ざらいするなら、「キッチン」@海燕でデビューしたのが87年の23歳。20代はこれを皮切りに『TUGUMI』『アムリタ』『NP』あたりが代表作か。で、30代となると、自選選集の刊行を一つの事件として、『不倫と南米』『体は全部知っている』と奈良さん表紙シリーズに加え『デッドエンドの思い出』がきわめつけかなあ。『王国』もすごく好きな作品。この人の場合、出産経験が作品に出てくるのは『イルカ』はじめ40代からかもしれない。yoshimotobanana.comの日記シリーズは読んでおく必要ありか。

なんとなく『デッドエンド〜』は一つの区切りじゃないかなあと思ったりもする。あとがきでも書いてあるしね。

あと、パトリス・ジュリアンとの対談では自分のために書いたものこそ結果的に素晴らしい作品になるのであって、人のためとか考えてる時点で不純、みたいな創作の動機を言っていたような気がするんだけど、近年のダライ・ラマとの対談(あれ、いったいどういう経緯なの?)では40代からは人のためと思って書いていると発言していて、これはけっこう個人的には「え! まじですか、よしもとさん!」と叫びたくなるような感じ。まあでも、これはたぶんよしもとの30代というテーマ設定をした以上は、言及を逃れられない変化であるように思います。

深掘りすべき作品はなにかな? 『アムリタ』あたりから再読するのがいいかもしれない。

あけましておめでとうございます

2015年ですね。

元日は、レンタカーを借りて親の実家まで、生まれた子供を乗せて日帰りしてきました。
祖母にもひ孫を抱いてもらえたのがなによりでした。
家族で集まる(集まれる)きっかけを提供できるのも、一つの親孝行の形なんでしょうね。
子供というのは本当に、夫婦だけでなく、親戚にとっても「かすがい」になるものだと感じました。
「かすがい」ってなんだっけ。あとで調べておきます。

帰りはちょっと雪が大丈夫かな? という感じでしたが、都内はまったく積もる気配なかったでしたね。
何年かぶりの長距離運転でしたが、最近の車の燃費の良さにびっくりしました。
信号待ちしているあいだも勝手にエンジン切ってくれるんですよね。
元日に営業してくれているのも大変助かりました。

さて、今年はどんなことがあるのやら。
じっくりマイペースを崩さずに行きたいと思います。

が、正月ボケで風邪を引いてしまいましたので、四六時中鼻をかみつつ、みかんを頬張って養生しています。