月別アーカイブ: 2014年12月

堀江敏幸『燃焼のための習作』

を、読みました。

『河岸忘日抄』が繋留する船の中で生活する奇妙な男の生活の記録であるとすれば、その友人として設定されたこの小説の主人公が過ごした大雨の半日は、どのように位置づけられるのでしょうか? それは間違いなく、水の音に包まれた世界。繰り返される状況設定は、あるいは著者堀江の一つのフェティシズムなのかもしれません。水音、雨音は、それ自体の存在によって他の雑音を消し去ります。そしてそのことが小説世界を却って見事なまでの静寂に包み込んでしまうのです。

主人公は便利屋を稼業としながらも、水辺の古い建物に探偵事務所を構えています。ある大雨の日、尋ねてきた依頼人と、主人公の助手を務める女性と、その三人がひとつの部屋の中で何度もコーヒーとお茶をすすりながら展開する現在進行形の話、依頼人の話、主人公の過去の話、それらが絶妙に絡み合い、200ページを超える中編と言ってもいい長さの一つの小説に仕立てあげられています。

会話というものには、流れがあるだけで中身はない、と枕木はつね日頃から考えていた。中身と呼ばれているのは、言葉に言葉を返し、沈黙を乗り越え、いっせいに声を出してまた黙ることを反復しているうちにだんだん形になってくるもので、川だって運河だって、そんなふうにしてできあがったのである。見えたり見えなかったり、歩いているうちに光を照り返す水面が切れ切れに反射して、ひとつづきの流れの存在が察知できる。

照り返す光を見逃すな。そんな小説。

森時彦『ザ・ファシリテーター』

を、読みました。

会社でファシリテーションの研修を受けたのですが、そのとき教えてに来てくれた講師の方が堀公俊さんという日本ファシリテーション協会の、言ってみれば本家本元みたいな方で、この研修が予想に反してけっこう突き刺さり、なにか参考書でもないかしらと探していたら『ザ・ゴール』と見まがうばかりの、例の進研ゼミの勧誘漫画的なノリでファシリテーションを小説仕立てで解説してくれる本書に手が伸びました。著者の森時彦さんという方も協会の方のようです。

研修でもいろいろと学ぶところはあったのですが、とにかくファシリテーターというのは意思決定を促進する役割を担っているので自分が何でも知っている必要が無いということが、けっこう文化系総合職の自分としては気が楽になるところです。『フラット化する世界』にも書いてありましたが、技術が次々と陳腐化する現代においては、やはり異質な何かを組み合わせる、今までなかったコラボレーションを創出する、こういう役割がどんどん重要になってきていて、まさに日本という先進国の、いやしくも海外にも拠点を持つメーカーに勤める者としては今後どう考えても必須のスキルであることには間違いないと思っています。

ファシリテーションは人間と人間の関係性に働きかけることを主眼としています。対義語はコーチング。これは個人に、流行りのナントカ力(りょく)をつけさせるという発想とは全く違っていて、とにかく人間のポテンシャルを信じることが大前提。人間関係によって人間はいかようにも力を発揮する、という考え方に根ざしているところが、非常に個人的には腹に落ちたというか、なんとなく自分の考えとビジネスという現場をつなぐ一つの紐帯になるスキルだな、と思えました。その意味で、ファシリテーションというのは海外からに輸入概念ではあるのですが、発想としては日本人に馴染みやすいということです。

本書はある会社の立て直しに社内の人間がチームに分かれてアイデアを出し、立ち直っていく様を小説仕立てにしたものですがふんだんにファシリテーションの小ネタを盛り込んであるので台詞の一つ一つが会社生活の場面場面でけっこう応用が効くように作られています。

「要するに、コントローラブルなものに、議論を向けていくということですね」
「そうですね。どうしても人間、他が悪いから出来ないのだと言いたいですからね」
「時間軸を意識させるというのはどういうふうにするのでしょう」
「『昔からそうですか?』とか、『今回だけではないですか?』『繰り返し起こることですか?』『将来はどうなっていますか?』といった質問ですね。データを見るときも、現時点でのスナップショットなのか、時間的な経過が含まれているのか、そういう見方をファシリテーターが促すといい場合があります」
「なかなか難しそうやね」

なかなか難しそうですが、明日から使えます。

トーマス・フリードマン『フラット化する世界』

を、読みました。

本書はいくつかのバージョンがあるのですが、財布と、情報の鮮度と相談して、結局「増補改訂版」として2008年に出されたものを読みました。こういういわゆるビジネス書は普段あまり読まないのですが、たまに頭をもたげる「サラリーマンたるもの世界経済にも通暁していなくては…」というよくわからない向学心が本書に向かわせました。

要約するならば、いろいろな変節を経ていまやインターネットを介して多くの国の人間が個人として繋がり合うことができるようになった。しかも安価に。このフラット化された世界では個人同士の協業が促進され、これまでよりもより合理的な経済が動き始めた。多くの人の予想を裏切ってそれはお互いの利益になっている。例えば業務をアウトソースしたアメリカにとってはより高度な知的生産に資源投入できるようになり、業務をアウトソースされたインドにとっては貧困層がお金を稼ぐ喜びを知るようになった。しかし世界にはまだまだ国家自体が問題を抱えているためにフラット化された世界に参入できない人びとがたくさんいる。また、逆にアルカイダのようにフラット化した世界のあらゆるツールを駆使することで、普通の大学生をツインタワーへ旅客機を衝突させるテロリストに仕上げてしまう。けれど、あるいはだからこそ、著者は「健全な想像力」の重要性を訴えます。

9.11同時多発テロ後、われわれはみな飛行機に乗るたびに、そういう末路を思い浮かべるようになった。〔引用者注:犠牲になった〕キャンデシーの身に起きたことが、自分の身にも起きるかもしれない、と思わずにはいられない。〔…〕しかしながら、現在われわれの飛行機がテロリストにハイジャックされる確率は、きわめて低い。〔…〕乗るときは乗らなければならない。〔…〕事件を頭のなかで再生するのがイマジネーションであってはならない。新しい脚本を書くことがイマジネーションでなければならない。

綿密な取材と(ドコモの本社に来てロボットに驚嘆したり、出井や大前、マイケル・サンデルまで出てくるあたり、若干マユツバではあるんですが)丁寧な引用によって、本書は正確に今起きつつあることをリアルタイムに言い当てていると思います。なんにせよインターネットは道具であって、そして素晴らしい道具として使い倒すことが、健全な市民としての務めであるし、そういうボトムアップの経済活動がいまほとんど日常として定着したことに改めて新鮮な驚きを感じるべきなのでしょう。だって、ぼくが高校生の時なんて欲しい本が本屋になかったら注文して二週間本屋からの電話を待たなければならなかったからね。なんて、そんなオジサンの昔話は昔話として聞き流しておいて…。

今後、いま所属している国家のために自由な経済活動が出来ないでいる人たちがフラットな世界に参入してきたらいったい何が起きるのでしょう? 資源の枯渇? それは一つの危機としてあるかもしれない。今だってブラジルの天候不順というサプライサイドの問題と、世界的なミドルクラスの増大というデマンドサイドの変化によって、よく行くコーヒー屋さんの豆が値上がりしています。この先資源の争奪は必至でしょう。その時にボトムアップで素晴らしいソリューションがインターネットを介した協業によって出てくるとしたら、こんなに素晴らしいことはない。というか、出さなければならないし、出てくるんだという「健全な想像力」をぼくたち自身が強く信じなければなりません。そういうのは本当に日常に宿ると思います。

インターネットの歴史とその功罪を学びながらも、今後の世界の変容まで見通す、考えさせる読書に持って来いでした。文弱の徒が言うのも何ですが、かなり、おすすめします。