羽海野チカ『3月のライオン』第10巻

を、読みました。

表紙を見て「蒲田の観覧車!」と思った方はどれくらいいらっしゃるのかわかりませんが、ぼくは個人的に映画『やわらかい生活』でその存在を知って以来、特に実物も見たことはないのですがなんとなく気になっているもののひとつでした。

が! 『3月のライオン』では既に閉園となったと書いてあるではないか! ほんとに??

平成20年代に閉園した主なデパート屋上遊園地
〔中略〕デパートではないが、2014年3月には蒲田東急プラザ(東京都大田区)の屋上遊園地「プラザ・ランド」も蒲田プラザのリニューアル準備の一環として閉園。当時ここには東京23区で最後の屋上観覧車が設置されており、こちらも同時に稼働を停止したが、再開要望が数多く寄せられたために、同年10月9日のリニューアルオープンにあわせて再開することが決まり、「幸せの観覧車」として復活した。

と、wikipediaに書いてありました。そっかそっか、それならいつか見に行ける。と、思って検索してみたらライブカメラまである! すごい…。

と、内容には全く触れられていませんが、いつもながら、一読だけでは軽々しくてなんとも。


佐々木正美『子どもへのまなざし』

を、読みました。

たまに覗いているスゴ本ブログで何かおすすめしている育児書がないかと見てみたら、何回か紹介されていたので読んでみました。なにはともあれ福音館書店。造本の良さは、これもまた一つのメッセージなのでしょう。韋編三絶、読み込むべし、という。

で、まずこの本は育児書ではなくて、むしろ育児書に走ってしまう孤独な親たちに向かって暖かくエールを贈る公演の記録であることを最初に明確にしておく必要があるのだろうと思います。

育児書というのもたぶん自己啓発本の一画を燦然と占める、たぶんある種の出版社にとっては言い値で本を売れる分野なのだろうと思いますが、これは決してそうではありません。

確かに読む人が読めば、フルクサイお説教にも聞こえるかもしれません。そういう面も否めません。ただし、ここに書いてあることに猛然と異議を唱え、逆を張った子育てをした成功例があるかといえば、多分無いのでしょう。わかっている、わかっている、わかっている……でも、できない、というのが子育てなのだとしても、それでもなお「100%出来なくてもいいから心に留めておいて欲しい」というのが著者の、いや、話者である佐々木正美の悲痛な訴えなのです。

結果が伴わないのはいまの自分を見ればわかることだし、厳密な因果関係で説明できるのはほんの一部分なのだろうし、統計的な「大多数」の例を当てはめてみたところで本人にとっては0%か100%かでしかないし。確率論で子育てをするんであれば、将棋ロボットにでもやらせればよいのでしょう(まあでもロボットに子育てができるのか? というのはそれはそれで興味深いイシューではあるのだけれど)。

本書で繰り返されるのは「誰かと一緒にリラックスできること」。それがいかに今のぼくを含めた親たちに不足しているか、できていないか、あるいは難しいかは百も承知です。けれど、明日からいきなりマンションの隣の部屋に済んでいる親子と一緒に動物園に行くことはできなくても、何かできることがあるはず。そういう思いを持ちながら、何かできることはないかと考えながら、子どもと一緒に過ごすこと。少なくとも最善を尽くしていくこと。まずはそこからなんだろうと思います。

何度も言いますが、結果は伴わなくても、結果なんて誰にも証明はできない。だから子育てに理論なんてものはない。だけど、それでも最低限これだけは、というラインがかならずあるはず。そしてそれは、眼に見えない心の持ちようも含めてなのであって、そしてそういうことがきっと言葉の分からない目の前で手足をじたばた動かしている彼・彼女にも通じるはずだと念ずるところからはじめなければならないんだろうと思います。

もちろんどうやって抱っこしたら夜泣きしなくなるかとか、離乳食こうしたらいいとか、そういう技術論的なことは、ネットでなんでも調べられるようになった今だからこそ助かる面はあるし、いろいろトライ&エラーでやっていけばいいと思います。でもそういうのを推し進めるのが親の心持ちようなのでしょう。まあ実際は、目の前でギャンギャン泣かれれば、手を差し伸べなければならないというほとんど反射行動にも近いのが実情ですが……。

この本にはたくさんの具体的な親子の姿が出てきます。抽象的な理念を語っている箇所は一切ありません。ここに出てくる実際に話者が見聞きした親子の姿を通じて、何が大事なのか、何を大事にしなければならないのか、何を犠牲にしてはいけないのか、それを読者それぞれが考えていく必要があると思います。

子育てというのは正解がない(と、言い切っていいのかもまだよくわからないのですが)。だから自分が自分の親から受けた様々な出来事とその結果生じた今の自分、あるいはそこには因果関係はないのだと判断する今の自分を参照することしかできないのかもしれません──などとこうやって勢いで書いてしまうことに問題があって、それが親たちの孤独の根源なのでしょう。

いまいま書いたばかりですが、スマホで手軽に調べられてしまうというのも、功罪あるのでしょう。誰かに電話して聞くというのなら大いにけっこうというのも、なんか時代錯誤的ですが、まあどっちがいいのかというのも結局よく分からないし、こういうテクノロジーに囲まれた中で子どもを育てるというのも、あるいは子ども自身が育つというのも、前代未聞のことなのでしょう。

それはいつの時代でも、環境はそれぞれ変わっているのだろうから明治のお母さんも大正のお母さんも戦前のお母さんも戦後高度成長経済の只中のお母さんも、それぞれが前の世代では思いもよらなかった環境変化の中で子育てをしてきた。で、今は? 新しいことをしないといけないの? いや、新しいことはせざるを得ない。抱っこ紐でおんぶしながら職場に通うわけにはいかないけれど、その精神に変わる何らかのビヘイビアがあるはず。

その想像力を貫くものは何だ? というのを考えるのが、この本を読むということなんでしょうか、ものすごく大げさになってきましたが。

まあしかし最後の最後は父親が読むべき本なんですよね。母親はわかっている。よーくわかっていると思います。結局両親学級だって、「両親」と冠しておきながら父親啓蒙学級であることは間違いないし、字を読んで頭で理解してからでないと自分の行動に自身を持てないというのは男親の悲しいサガなんでしょうか。

なんかまとまりないですがとりあえず読後の興奮のままに。


開一夫『赤ちゃんの不思議』

を、読みました。

まあ何が不思議って、大学時代あれほど「リア充の学問」として忌避していた発達心理学に感心している自分が一番不思議だよ。

本書によれば、多くの人が赤ん坊の頭を左側にして抱くのは心臓の音を聞かせるためであるという「ハートビート仮説」は現在では否定されていて、はてさてやっぱりよくわからないというのが実情のようです。ほんとうに、科学の進歩より子供の成長のほうがずっと早いので、こういう学問は実際にやっている人からすると歯がゆいところもあるのかな、などと邪推してしまいます。


パヴェーゼ『月と篝火』

を、読みました。

パヴェーゼは岩波が文庫化を推進してくれて初めて知った作家でして、かつ言ってみれば川端のような澄み切った郷愁とでもいうんでしょうか、そういうのが(文学のモチーフとしてはしゃぶり尽くされているし、ある方面ではそういうノスタルジーを作家自らの甘やかしであるかのような風潮があって、文庫本の表紙に書いてある「梗概」を眼にしただけで「ケッ」とか思う本読みもいるのでしょうがそれでも)すごく個人的にはぼくの心にフィットして、新しく文庫化されるたびに買い求めては感嘆していました。

本書はパヴェーゼが自殺する前、最後の著作ということで、中編というべき長さを持っているのですが2ヶ月で書き上げられたということです。いろいろなストーリーラインが交錯して、かつ時系列も現在と過去を行ったり来たりするので、いままでの作品の中では一番読みづらいかもしれません。政治的歴史的背景については不勉強でなかなかわからない所も多いのですが、戦争を挟んで故郷に戻ってきたある男の回想と目にする現実、耳にする現実には沢山の死ぬべきではなかった人が死んでいった暗い影が、張り付いています。

それでも

この谷間に、またこの世界に、どれだけたくさんの人びとが生活しなければならないのか、ぼくはついそのことを考えてしまう、そしてたったいまもあのころのぼくたちに降りかかっていたことが、人びとの身に起こっているのだ。〔中略〕別のヌートがいる、別のカネッリや別の停車場があり、ぼくのように外へ出て幸運をつかみたいと願う人間がいる──〔中略〕何もかもぼくたちのときと同じことが起こっている。そうならざるをえないのだ。子どもたちも、女も、世界も、何ひとつ変わっていない。〔中略〕それでも生きることは同じなのだ。いつか自分たちが振り返ったときに、いっさいが過ぎ去ってしまった日の来ることを、人びとは知ろうとしない。

この箇所は胸を打ちます。諦めと、強がりのあいだをものすごい振幅で「ぼく」は揺さぶられています。一つの答えが必要なのではなくて、こういう文章が、一冊の小さな本の中で光り輝いていたということを発見する喜び、悲しみが、ぼくたちを読書に向かわせるのだとつくづく思わされます。


堀江敏幸『象が踏んでも』

を、読みました。

回送電車シリーズは単行本で買ったり文庫本で買ったりしていて、どれか一つ抜けていたという認識はあったものの、買い揃えるまでの気力もなく、金曜日の会社帰りに寄った本屋で新刊文庫コーナーで拾い上げると直感的に「これは読んでいない!」という感覚を頼りにレジに向かう。何度も繰り返していますが、堀江敏幸の文章に触れることは、上質な絹の手触り、上質な醸造酒の複雑な芳香。

巻末の写真論がとても良い。

写真は論述の対象でも読書の対象でもなく、まして所有すべき品でもない。写真家が一瞬のあいだとらえた情動を、心の震えを受け止めつつ、同時にとんでもない方向へと自分自身の夢と幻想を投げ出していくフィールドのことである。


保坂和志『朝露通信』

信じられないことに、「あとがき」にたどりつくまで「朝霧(あさぎり)通信」だと完全に勘違し、なぜ鎌倉が舞台のこの小説にこんな題名が付けられたのかと不思議で仕方がありませんでした。ごめんなさい。「朝露(あさつゆ)通信」が正しいです。

さて本作は読売新聞に連載されていた著者としては初めての新聞小説ですが、単行本では見開き二ページで一日分の連載が掲載されているので、連載時の呼吸というか、この日はここで終わって次の日はここから始まったのだなというのがよくわかります。そして当然ながら一日分の中途半端さも保坂ならでは。

けれどもこれほど、ある意味では、というかあらゆる意味での「自分語り」に徹した形式の小説はこの作者にしてはかなり珍しいように思いました。鎌倉と山梨を行き来しながら、その時その時に思いついた子供の頃の出来事の断片を思いついた順番に忠実に文字に落としていきます。読む方は「ふんふん」という感じで流れに乗ればついていけてしまうのですが、実際には頭のなかを流れている独語というのはものすごい速さなので、それを意識の流れのままに文字に落とし込んで(こういう言い方は非常にナイーブすぎてよくないのは十分わかっています。そういう風に読めるように書かれてあるというのがまずは小説家の技量の見せ所であって、それに完全に騙された読者として、まずは読後感を記しておきたいというのが、ぼくの趣旨であったりします。テクスト分析はどこかの大学生がまたぼくの卒論のようにやってくれるはずです)いっているこの濃密さというか、自分の頭のなかへの執拗なまでの粘着さにはただただ脱帽。

子供の頃のエピソードってみんなけっこうは涙腺を刺激されるポイントがあって、というか、けっこう傷ついたり嬉しかったりした記憶のパターンというのがある程度共通フォーマットとしてあって、まさに「あとがき」にも書いてあるように、保坂少年と思しき主人公が、お金が足りなくて欲しくない方の絵本を買ってきて、家についたら泣き出してしまって(うんうん)、母親に足りないお金をもらってまた買いに行ったエピソードとか、親戚のお兄さんたちと遊んだ思い出とか、あるいは休みが終わって一人になってしまう寂しさとか、クラスの女の子が「女の子」に見え出したりした瞬間だとか、そういうのって必ず誰の心のなかにも同じような気持ちを感じたことが必ずあって、保坂少年の意識の動き、あるいは今その文章を書きながら思い出しているその現場にその文字を読むことで立ち合いながら同時に立ち現れてくる自分の頭のなかの裏側の深い深い奥のほうをくすぐられる感じを楽しむのが、「朝露通信」の真髄なのではないでしょうか。

すごく、だから、フィジカルな小説なのだと思いました。


ひげそりの哲学

勤め人なので毎朝ひげを剃ります。

学生時代以来電動シェーバーを使っていたのですが、最近は替刃のほうが本体より高くて、どうしてこんなプリンターみたいな産業に投資しなければならないのか懐疑に陥り、最近はもっぱらカミソリに切り替えています。

あと、なんとなく電気を使うのが嫌だっていうのがあるんですよね。反原発とかそういうことじゃなくて(暗にあるかも知れないけど)、充電池とか電池という存在があまり好きになれなくて。終わりを気にしなければならないのっていうのが性に合わないんだよね、たぶん。

まずは、いわゆる貝印のT字カミソリを皮切りに使ってみましたが、なんといっても深い一枚刃なのでよく剃れます。根こそぎです。価格も抜群に安いですし柄が鉄なので鋼材消費にもつながり一石二鳥です。ただこれはある程度ためて燃えないごみに出すということをしなければならないので、ちょっと面倒です。

一方で世の中ではテレビなんかで多枚刃をうたった商品もよく宣伝されています。ぼく自身はそんなに毛が濃い方ではないので、必要最低限のスペックで十分なのですが、ただ薬局などに行くとけっこういろいろな種類が売っていてます。高いものは五枚刃くらいの替刃が売っていたりします。

これなんかは使い捨てながら二枚刃で、いわゆる「キレテナーイ」の加工もされています。貝印に毛が生えたくらいの値段で購入できるので、今のところこれを使っています。ただこれは「キレテナーイ」の加工上(ワイヤーを渡してあるので)剃っている感があまりなく、短く何度も往復してちょっとずつ切り揃えるという感じです。まあそういうものなのでどっちがいいとかではないんでしょう。

あとは顔につけるシェービング剤もいろいろ売っています。ジェルとフォームと試してみましたが、まあ泡のほうがなんとなく肌に良いような感じはしました。もう本当に値段相応という感じですか。

シックばかりですがこれなんかは海外製造のエアゾール缶のためかスチール製なので、鋼材消費にもつながり一石二鳥です。

ということでカミソリとシェービング剤の組み合わせを考えただけで確かにこれはひとつの哲学として成り立つなということにも思い至り、モームの迷言にもようやく、理解が追いついたというものです。

ということで、便利が過ぎて馬鹿にならぬよう、脱電化生活をにらみつつひげそり生活を始めて3週間目くらいですが、また何か発見があればリポートするかもしれません。


高野文子『ドミトリーともきんす』

まさかの新刊!

高野文子を同時代で読めるなんて、こんな幸せなことはありません。

いつもいつも思いますが、そして今回も「あとがき」のはしばしからにじみ出ていますが、素朴な絵柄の後ろで、ものすごい時間と綿密な考証をしているのが伺えます。

本書は、4人の科学者の若かりし頃をドミトリー=寮に一堂に会させ、そこを管理する寮母(かの「黄色い本」に夢中になった少女が・・・と勝手に想像を膨らましてしまうのですが)と一人娘との交歓をほほえましく描いたもの。

そして同時に、科学読み物の丁寧な導入書にもなっています。

漫画の一つ一つが、湯川や中谷やの実際の著作からの引用を元にストーリーが膨らませられていて、そしてこのふくらませ方が本当に、なんというか、胸がむせ返るほどの幸福感を与えてくれます。子供の頃、図鑑を熱心に読んでいた時のような気持ちが蘇ってきます。

本当に、文学部なんてところを出てしまうとまっとうに本を読むことができなくなるなあ、としみじみ感じます。不思議に思う心、それは大人にこそ思考の出発点として常に心得ておきたいものです。


大今良時『聲の形』(6)

なんとなく、主人公不在の中で各人各様の過去が暴かれ・・・みたいな展開にしたいのかもしれないのだけれどなかなかうまく行っていない。

いちいちのリアクションが派手すぎて、けっこう大事な対人反応を描いているはずが、他のごちゃごちゃに埋もれてしまって惜しい気がします。将也の母とか。