ちくま日本文学『内田百間』

を、読みました。

「けん」の字が出ませんね。

本書は大型書店に行けば必ず揃っていた筑摩のポケット文学全集が文庫ソフトカバーになった第一弾であったと記憶しています。内田百間くらい嗜んでおこうと若かりしぼくは買い求めたものでしたが、こちらも途中まで読んで長らく本棚の奥に眠っていました。

改めて読み返してみると、いかに現代文学の多くが、おそらく映画からの影響を明に暗に受け過ぎて、視覚に偏った叙述に成り下がってしまっているかがよくわかります。百間の文章には、視覚と同じくらい聴覚や臭覚を呼び覚ます記述にあふれています。文章に抱きすくめられるような、そしてその語り口調で泥棒や幽霊の話をされると本当に背筋が寒くなるようです。


いくえみ綾『太陽が見ている(かもしれないから)』第一巻

を、読みました。

いくえみ作品は新刊が出れば必ずチェックしています。わけあり金持ちのボンボンが親父に買ってもらった貧乏平屋(フラットハウスって!)で三角関係、みたいなそんな話です。でも、きっちりと、普通さを演じちゃう自分に悩んでいる自分って一番平凡であることに気がついていない系女子、見た目地味だけどいざとなったらガンガン行ってしまう系女子、優柔不断だけど実はきつい過去を持っているロンゲ系男子、が出てくるアタリ、いくえみ節が炸裂しています。

それにしても最近は同時連載が多くて、作家さんも大変ですよね……。


シンプルでありたい

いつでもシンプルでありたいと思っているけれど
いつのまにかこんがらがって
いつのまにか複雑な隘路に自分から頭を突っ込んでいる時がある

アップトゥーデイトなものに自分を合わせるんじゃなくて
結局のところフルクサイぼくにっては
一番クラシックで一番シンプルな装いが合っているのだ

振り返ればそうしていた時が
一番、心が安定してたし
一番、自分らしく笑えていたと思う

装飾を剥ぎとり、あるがまま、そのものを受け入れたい
そういう自分でいつでもありたい


D[di:]『キぐるみ』

を、読みました。

もちろん「原作」のノベルコミックや、D特集の「文藝」はぼくの青春の墓標として今でもしっかり本棚にしまわれています。ぼくもそのときは大学生で、いたくいたくこの原作には感銘を受けたというか、心を揺さぶられました。

モチーフに反して、とにかく暗い。Dが北海道出身ということもあって、札幌にあこがれ、東京にあこがれした自らの経験も詰まっていたりするのかな、などと勘ぐってしまうととたんにDワールドが卑近に堕するのでこれ以上言いませんが、それにしても「ホンモノ」を探し続けていたらたぶん東京よりもニューヨークで、ニューヨークよりもナントカカントカでと、永遠につきない旅なのかも知れません。この物語は結局のところ、「仮面の告白」の逆を張っているというか、仮面を逆側からかぶってみせた告白、といったらいいのか。ホンモノを探し続けるニセモノの自分だけがホンモノなのだ、という悲しい現実を何度も何度も執拗に描いたものなのかも知れません。

ラストシーンにお兄さんが居ないのが、いまでもどこか心に引っかかり続けています。


ザミャーチン『われら』

を、読みました。

その名もズバリ、アンチユートピア小説であり、ソ連体制の風刺、ということです。

われわれ──Мы、というのはロシア語初学者が必ず最初に出合う人称代名詞であり、「三人姉妹」などとともに初級者でもすぐに分かるロシア語文学の題名としてよく紹介されます。ロシア語の人称には「あなた」「君」の二つの大きな使い分けがあって、相手をそのどちらで呼ぶのかによって関係性が色分けされるという、日本語にもちょっと似たところがあります。本書の中にもやはり「トゥイ=君、お前」と呼びたい心持ちのようなものも出てきます。

題名の「われら」は結局レムの海に似ていて、人称の総体が一つの人称になっている状態を言っています。これもまた会社を「うち」などと呼んでしまう(それこそ)我々にとってはあまり笑えない状態であることは確かで、色々なテクノロジーが発達し人を隅々まで管理したがる、できてしまうこの今の現状は、筆者がソ連を憂いた100年前と何ら変わっていないのが実情というものなのでしょう。

それにしても気軽に飛行機に乗ったり、初期ジブリ的な仕掛けがあったり、宇宙に行ってしまったり、その突き抜けた想像力はまったく色あせずに現代文学としての地位を確固としたものにする源泉です。


ボルヘス『伝奇集』

を、読みました。

極めてブッキッシュな小説達……とでも言ったらいいのでしょうか。とにかく、小説について、人がモノを書くことについて、本についての小説が収められています。

有名な「バベルの図書館」は何度読んでも、その広大深遠で暗く冷たい図書館のイメージが頭の中から離れません。ぼくたちの読む本は必ずその書架の何処かに収められているのです……そこには全ての予言、すべての事実が記述されているのです。「無限」というものに対する極めて手触りのある実感を、たった数ページの短編でボルヘスは僕たちの脳みそに直接訴えてきます。

面白かったのは「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」。これはメナールという現代の作家が上梓した『ドン・キホーテ』についての考察で、もちろんこれはセルバンテスの原書と一字一句違わない本なのですが、要するに古典を現代文学として読んだらどうなるか、というはやりのテクスト論についての小説です。

文体の対照もまた甚だしい。メナール──彼は結局、外国人である──の擬古的な文体にはある気取りが見られる。先駆者の文体にはそれがなく、その時代の普通のスペイン語を自在に操っている。

『日蝕』でデビューし、「バベルのコンピュータ」で読者を煙に巻く現代作家がボルヘスを好むのもまたうなずけるというもの。
そういえば村上春樹『風の歌を聴け』に出てくるハートフィールドも架空の作家らしいですね(あの「あとがき」の背後でゲラゲラ笑っている著者の姿がなんとなく彷彿とさせられますが……)。


谷崎潤一郎『細雪』

を、読みました。

さすが、「話の筋」大家の面目躍如というか、こんなにも小説的愉悦に溢れた物語に沈潜する体験をさせてくれる作家は本当に、稀有というべきです。中公文庫のこの厚さでも、全く長さを感じさせません。あっという間に、読み終わってしまいました。

でも、ページを見返せばまるで自分の思い出のようにあんなこともあったな、こんなこともあったな、と、郷愁とさえ言えるような懐かしさで胸が一杯になります。それは、本当にこの物語が人生そのものだからなのでしょう。これを読むということがイコール人生と言っても良い、本当に素晴らしい作品だからなのでしょう。

細雪には戦後は描かれません。今、読むぼくたちはその戦争が敗北に終わることを知っているからなお一層、この四姉妹の生き様が美しく逆照射される、というのはあまりにも書生的な「文芸批評」なのでやめておきますが、昭和初期のつかの間の平和、のようなお題目を立てることもまた、あまりの誤読というべきもので、大洪水もあれば病気もあり、戦争の忍び寄る影もきっちりと描かれている中で、タフで頑ななまでのマイペースさを守る姉妹それぞれの姿が明るくみえることにこそたくさんのことを学ぶべきなのでしょう。

とにかく、10年近く我が書架に眠らせ続けていたことを後悔する本でした。