週刊ダイヤモンド「ビジネスに勝つ英語」

を、読みました。

会社で受けている英語の先生に興味があれば読んでみるとヨロシ、と言われたのでとりあえず買って読んでみました。

目新しい記事ではありません。「楽天」以降、TOEICの受験者が増えているがTOEICではしゃべれるようになりません、そこでいろんな人がいろんなコトをやっています、という紹介がだらだら続くという感じの特集でした。

ただまあ、スマホを使って細切れ時間に勉強するのも良いようです。そもそもぼくはスマホ持っていないので、CD付きの本を相変わらず買うしか無いんですが……。


鷲田清一『〈弱さ〉のちから』

を、読みました。

すぐに思い出すのは太宰治を評して曰く「弱さを持続する強さ」。それに近いものはあるかも知れません。

あるいは、自らの弱さを認める強さ、というか。結局、五体満足を「強さ」というか、「強さ」とまでは行かなくとも少なくとも「弱く」はないもの=一つのスタンダードとして捉えてしまうと、弱いままの自分をまずは改善し、ある一定のレベルにまで到達することに死に物狂いになってしまいます。五体満足にならなければ例えば「本当の人生」というものは始まらない、とでもいうような思い込み先入観に捉えられて自縄自縛になっている人は多いかも知れません。

そうではなくて、弱いままの自分を生きるための前提条件として受け止めれば良いのだ、病気を治すことに一生を費やしていたら寿命が来てしまいました、では本当に笑えない話なのです。病気を受け入れて、それを自分のスタンダードとして生きて行く、それが自分にとっての生きていくということなんだ、という風に受け入れられなければ、きっと人生はただただ辛いものだけになってしまう。何かの準備期間ではないので、今のこの瞬間は。イマココで、息している、生きている、ということを全身全霊で受け入れるのだ、そういうことを鷲田さんは幾人かの「弱い人々」「弱くていいんだよ、と言っている人」との交歓によって、この本の中で主張しているように思いました。

なにはともあれ、応用倫理の授業が懐かしい、というのがごくごく個人的な感想でもあります。


辻惟雄『日本美術の歴史』

を、読みました。

一応、教科書の体裁をとっていますが、一人の研究者(それも、くせのある!)が通史を書いているという点で、よく美術出版社から出ているいわゆる教科書とは一線を画しています。その偏り具合が、むしろ教科書的な美術史しか「お勉強」してこなかった者にとっては新しく、楽しく読めました。

著者は前書きで「かざり」「あそび」「アニミズム」が日本美術史を貫く三本の柱だとはっきりと述べ、本文の要所要所でもそれを確認していきながら論を進めていきます。縄文土器から宮崎アニメまでを一直線で結ぶとしたら、やはりその三つがキーワードになるのでしょうか。その是非はともかくとして、『奇想の系譜』を書いた著者の眼には日本美術の歴史はこう見えているのだな、という好奇心を満たしてくれる一書です。

それにしてもMOA美術館の収蔵品の多いことよ……。


平野啓一郎『ディアローグ』

を、読みました。

お盆休みも終盤戦で、読書もはかどりますがそろそろ月曜日の足音が聞こえてきますね。

本書は「モノローグ」と同様、著者の20代の対談をまとめた著作です。

特に青山真治との対談が抜群に面白いです。正座の芸術談議もいいけれど、こういう北九州丸出しのあぐらをかいて酒を間にしながら、みたいな(比喩です)やりとりはけっこう著者としても珍しいものではないかと思います。あの洞海湾、八幡の(って、知らないけどさ)環境で生まれ育った若者が、なぜ中世フランスを描くに至ったのか? それは、青山の土着的なものへの愛憎のバリエーションであったりもします。

「サッド・ヴァケイション」の冒頭の空撮はとても好きです。


平野啓一郎『モノローグ』

を、読みました。

平野氏20代のエッセイ集です。と言いながらも、著者の好む「全集」の比喩でいうならば、別巻「補遺」にでも収録されるような断片まで含めたもの。一冊あると非常に便利と思って、これが出たときに買っておいて7年間本棚に眠っていたのをたたき起こしました。

それにしても平野啓一郎はひとつの事件でした。今となっては本当に、なぜ『日蝕』があれほどセンセーションを巻き起こしたのかわかりませんが、その後の芥川賞の世代交代を見るに付け、ああいう記者会見が一つのマスコミ的な定例のお祭りになったことの(功罪も含めて)この人が発火点となったことは疑い得ません。

若い作家がデビューして、その後もコンスタントに作品を発表し続けることがいかに難しいかは、毎年輩出(排出?)される膨大な「新人賞受賞作家」のその後を見るにつけ明らかではありますが、著者が意識的に、むしろ過剰なくらいに意識的に自身の「文学史」を更新し続けている姿を追えるのは一読者としてうれしいものです。

その、初源に著者の、あるいはあの当時の日本の文学の世界が背負っていた「若さ」や「イライラ」を思い出すのにも、非常に記念となる一冊。

それにしても絶版のためかamazonさんではかなりの高値が付いています。


小林秀雄全集別巻1『感想』

を、読みました。

読みました、と言ってみたところで、一体何を読んだのだと、ここで無知をさらけ出しながら書くのはあまりにも恐れ多いものです。茂木健一郎の紹介で、我々若年の者にも今となっては存在を知られることとなった未完のベルグソン論『感想』は、著者の遺志により全集に採られることを禁じられ、この2002年刊行の第五次全集で初めて「別巻」という定位置をようやく与えられることとなりました。

ちなみに2009年6月29日に当全集を購入してから5年の歳月が経過していますが、この間ちびちびと上質の酒を嘗めるようにして読み進めてきた全集の読書体験も、これにて一つの長いトンネルを抜けた事にもなります。

当然のことながらまだまだ読み尽くせていません。高校生の時分に触れた断片的な記憶を蘇らせたり、オランジュリー美術館へ行く前には「近代絵画」を読み、去年の一月にはセンター試験に出題された文章をその直前に読んでいたりもしました。そういう「記憶」もまた、再読の際の「思い出」となるのでしょうか……。

ひとまずは、完読したという記録として。


2014/08/11

・やっぱり、それが最後であることに気がつくのはそのことがすっかり終わってしまってからなんだなあ。

・人の代わりにはなれない。人の痛みはわからない。そのとき、人はどうするのか? どうするのが正しいのか? どうしたいと考えるのか?

・人の人たる所以は、共感か。

・「共感力」と言った途端に悪しき合理主義にからめとられる。その前に、跳べ!

・人はみんな違う。同じ人はいない。そんな単純なことでさえ、自覚するのは難しい。

・人はみんな違うと考え続けながら、例えば満員電車に乗ることは出来ないように。

・そのやり方で。

・自分の無力。無力な自分を、常に出発点にして。