月別アーカイブ: 2014年5月

「毎日が金曜日のように」

ようやく金曜日なんですが昨日から今日の午前中にかけて脇目もふらず資料を作っていたのでへとへとです。

そして日曜日は会社のビルが停電のため出社能わずパソコンを持って帰るのです。

それにしてもかつて予算期で多忙を極めていた頃のぼくは「毎日が月曜日のようだ」と言っていたものですが、それはやはり若さから来る発想の貧困さがなせる業であって、熟練したサラリーマンは「毎日が金曜日のように」仕事をしていくものなのでしょう。月曜の朝から「明日休みだから今日一日頑張るぜ!」という気持ちで(あくまでもそういう気持ちね……)週明けを向かえられるように、かばんに入っているファイルの山を片付けるべく土日を費やしたいと思います。

いや、こんな日記を書きたかったのではないのだけれども、決して決して。

古き良き自分へ

英語のクラスが始まって二週目。2時間みっちり普段は全く使わない部分の脳みそを使っているので終わった後全く仕事にならないのを何とかしなければ……。そして隣で「作家になりたくて文学部入ったんですけど諦めたんですけどねー」と英語でしゃべっている御仁がいるのを見るに付け、我が身の自己矛盾というか、いくじの無さというか、いろいろ考えてしまった。全然英語と関係ないんですけどね。

それにしても本当に何も書かなくなってしまいました。
せめてブログだけで書いてなんとか書いたことにしようかと思っています。
本当に忙しすぎて、疲れすぎて、ダメなんです。後から後からやらなきゃいけないことが降って湧いて、土日も潰さなければならないほど、あるいは潰れないにしても心のなかでは金曜から月曜日の心配をしているという非常によろしくない状況がずっと続いています。世の中の大人たちはみんなこんな生活をしているのかな?? いつになったら楽になれるのかな? わかりません。かつて上司にはプレッシャーが今よりも軽減することはないから、と言われましたけど、あれだけは正しかったような……。

このパソコンももっと使い倒して、グールドなみにキーボードにかじりついて文字を奏でなければなりません。

本当にこのままでは、自分が成りたくなかった大人になってしまうなあ。その道まっしぐらなんだよなあ。

とりあえず、ここのところのテーマは没入、集中力、なりふり構わず、です。
そういうことが本当にできなくなりました。かっこつけすぎているんでしょうか。きっとそうなんでしょうね。目的に向かって、まっしぐらに最短距離で、全速力で飛びつく。気がついたら夜中の二時! それがかつての古きよきしゃもぢさんだったではないですか……。

ムムッ

ここぞというときの残業力が復活してきたでありますぞ。

ただしちょっと風邪気味なのがツライです。

それにしてもなんか書かなきゃなー…。

三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』

を、読みました。

まあなんというか、最右派の女子大の連続講義みたいな感じでした。

決して、題名から想像されるような女性の社会進出について社会科学的、生物進化論的、身体論的な根拠に基づいてレッテル張りをする……というような内容では全く無く、むしろ著者があとがきで述べているように「科学時な根拠のあること、あるいは、ただ、私の気づきに過ぎないこと、が混じっています」。これをどこまで楽しめるかどうか、ですね。

要約してしまえば「女はさっさと結婚して子どもを生むのが一番だ」という主張なのですが、著者のこれまでの経験や調査に基づいた(けれども? それが故に?)一貫して主観的な物言い(「〜と思います」「〜でしょう」のなんと多いことか!)に織り込まれてくるさまざまな具体例がいちいち面白いのは確かです(昔の女性は経血をコントロールできた!)。

ですから、「なるほどこういう事例からすればこういうことが言えてしまうのも確かだな」というところから「しかし自分はこう考えるぞ……」という読書の契機としては良い本ではないでしょうか。自らの生き方によってこの本の主張を否定しにかかるのも良いですし、アマゾンのレビューで激高している人も多いようですが、読む人を非常に選ぶ、読む人の生き方に対して非常にツボを突いてくるという意味で良書。

良書、というか、こういう本はこっそりと出版されてある一部の人に受け入れられればそれで使命を全うしたことになるようにも思います。光文社というブランドと新書という形式で頒布されてしまったのが不幸だったようにも思えます。読者ターゲットは新書を読むようなオジサンたちではないのは確か。しかしまあ光文社の女性誌といえば「女性自身」ですから、その意味では右派としての一貫性はあるんでしょうか……そこん所、どうなんでしょう。

連休が終わりました。

昨日、神戸から帰宅しました。

嫁さんの家族や親戚とご飯を食べたのですが、なんというか、「結婚」という契機がなければまったく知ることのなかった遠い土地の共同体の中に、ある日突然やってきて「娘の夫」「孫の夫」「姉婿」であるというだけで当たり前のように座っていられるというのが、不思議で不思議で仕方ありませんでした。これはとても良い意味で言っています。

人の結婚式を見ていても、結婚というのはなるほど個人と個人との契約だけではなくて家と家との新しい関係を生み出すということなんだなと、良くも悪しくも感じたことはあるのですが、今回神戸に「帰って」みて、良い意味でそういう新しい人間関係を築くことの良さをしみじみと感じた次第です。

ぼくは一時期まで本気で孤独死を想定した人生設計を考えていたので、こういう「誤算」に出食わしたことで色々と考えなくてよくなった問題もたくさんあります。もちろんあらたに引き受けなければならない問題もたくさんあります。とこに貴賎も優劣もないということだけは、ぼくは何度でも言っておきたいところではありますが(別に結婚したから人生勝ち組ではないし、それは本当にたまたまのたまたまが重なってできた奇跡のようなことであるし、一人で生きていくことをいつでも「あったかも知れないもう一つの時間軸」として濃密に認識しておくことは心がけていることでもあります)、そういう「個人的な課題」をじっくりと考え行動していくことがやっぱり、生きて行くということなんだろうと思いました。

そういう気持ちを前提にして、生きていきたいと思います。

ようやく連休入り

5/1は会社がメーデーで休みということで飛石連休だったのですが、ぼく自身はあまりそういうのを理由にして休むことを職業倫理的にあまり好ましく思っていない(ほんとに、真面目に)ので、4/30も5/2(今日です)も会社に行ってまいりました。

まあそんなにガラガラというわけではないのですが、ちらほら人がいる中で自分の上司は当然のことながら来ていなかったので、久しぶりのんびりとマイペースで自分の仕事をすることができました。こういうのがいいとは言わないけれど、たまには自分のスピード、自分の実力、自分のモチベーションを確認するためにゆっくり仕事をしてみるのも悪くない試みだと思います。

明日からは嫁さんの実家(神戸)に帰ります。半分以上観光なんですが。そういう機会もなかなか無いので楽しんでこようと思います。