月別アーカイブ: 2014年4月

村上春樹『女のいない男たち』

を、読みました。

正直、良かった。とても良かった。

本質的に男はみんな「女のいない男」であるのだし、あるいはたぶん、そういう自分を抱えながら生きているのだし、そしてもしかすると、最後にはそうなるのかもしれません。そして、たぶん(と、敢えて「たぶん」を頻発しますが)村上が初期から描いてきた愛すべき孤独な主人公達はみんな、「女のいない男たち」だったと言えるかも知れません。

「イエスタデイ」は『ノルウェイの森』の変奏のようにも読めますし、「木野」も初期の村上ワールドに程近い状況設定の中に懐かしいキーワードが散りばめられています。経験の長い読者にとっては目新しさはないかも知れませんが、ある意味では田崎つくるにがっかりした後で読むと、「ああやっぱり、ぼくたちは村上のこういう世界を読みたかったんだな」ということを再認識させられる作品かもしれません。

もっとも、ぼく自身はねじまき鳥以降の作品について良い読者ではないので、そういうバイアスもあるのかも知れませんが、作家は処女作に帰るとも言いますし、なんとなく、作者のかつての王道を久しぶりに堪能できるよい短篇集です。

逃げ続ける休日

金曜日が飲み会だったので、その後会社に戻って仕事をしようと思ったが結局、会社に戻るころには日本酒が頭の中でぐるんぐるん回って駄目だった。デスクでおにぎりを食べて、まだ残っていた後輩に「早く帰れ!」と言って自分はそのまま帰った。

翌日、会社に行くも、パソコンだけかばんに詰めてお持ち帰り。その日もまったく家に帰ってもパソコンを開く気なし。

今日も今日とてちょっとだけエクセルをいじったが、実質的になにもせず。結局月曜日に会社行って上司に「まあ、一応やりましたけどね」という体裁を取り繕うためだけ。というか、そのレベルにも達していない。

むしろその前から色々言われていた案件をこの一週間放置し続けていて、なんとなく一山仕事が終わった後だったので毎日定時に引けるか、飲み歩いていたりしたのでこの一週間完全に仕事らしい仕事もせず週末に至っている。

とにかく絶望的にやる気が起きない。やる気で仕事はしない、やる気がないときも義務感で仕事をする、が信条だったけど、それすら最近効力がなくなってきている。どうせ怒られるんだろうな、となんというか、30歳を過ぎてもこんな心持ちで仕事しているのが居たたまれないし、痛々しいのだけれどあーやっぱりサラリーマンは自分には向いていないなあ、とため息を付いたところで何の能力もないし、かつての見果てぬ夢に手を伸ばすでもない。

今日も結局だらだらと本を読み、あわよくばヤル気でないかと思ったりもし、アマゾンでくだらん自己啓発書をまた買ってしまい、そんなことまでしてなにがしたいのか、というかやるべきことはわかっているのにそこに真正面から向かえない自分をほとほと嫌になっている。

ああもういやだ、会社辞めたい会社辞めたいと毎日想い続けてこういう生活が後何年続くのだろうと思うと本当に嫌になる。これは日曜日の夜だから言っているのではありません。

八年働いて、まだこんな覚悟のつかないことばかり書き続けている自分が、情けないですね。なにかいい特効薬がないものでしょうか。睡眠ですかね。

鴻上尚史『「空気」と「世間」』

を、読みました。

ポイントは次の二点。
・日本人は自分の利害関係者集団=「世間」の中で生きてきた
・敬語を使って「社会」の他の集団と繋がっていこう!

前半はアベキンを引用しながら「世間」や「空気」の分析に費やされていますが、最終章でインターネットで色々なグルーブとつながることが可能になって今こそ、「世間」という手垢にまみれた場所から「です・ます」というドライな日本語を駆使していろいろな「社会」集団とコネクトしようという提言がなされます。ここはもっと最終章にページを費やして欲しかったのですが、しかしこれは一見簡単なことを言っているようで、けっこう本質的です。

もちろん社会の諸集団と複数のつながりを持ったところで、相変わらず「世間」はつきまとってきます。ミクシーのなんとかコミュニティに参加してたまにはOFF会に参加して……なんて展開になったとしても、それで会社をやめられるわけではないし、その必要もありません。けれど、人間としての強度は、明らかに多様性を受け入れることによって強められていくはずなのです。それによって人間全体に対する理解も深まっていくはずなのだから。

もちろん卑近な例で言えば、会社だってすべてがすべて「世間」であるわけではないし、すべてが「世間」だと思ってしまうからこそ足がすくむことだってある。むしろ、自分の半径十メートル以内を「世間」だと考えてしまうことから甘えが出てしまうのかもしれません。だったら、目の前にいる人から「敬語」できちんと意思疎通することから始めてみるのも、一つの突破口になるかも知れません。

福田和也も何かで書いていました。「敬語」というのは、相手との距離感を予め固定化することで余計な探り合いを無くし、対等な会話を成り立たせるのに必要な、日本語に備わった強力なツールなのである、と。

一歩マンションの外に出ればそこは「社会」であって、けれど「です・ます」を駆使してその中を泳ぎ切っていけば大丈夫! という、少しの勇気を、そして大いなる可能性を秘めた勇気を与えてくれる良書です。

少し落ち着いたので

少しずつ自分のペースを取り戻せています。

昨日は10時間近く眠りました。頭もすっきり。

やっぱり人生で一番大切なものは睡眠です。
冗談でなく、それが全ての基盤になっています。

ということで、

戦闘開始!

二日連続で

タクシー帰り。

いい加減、予算も終わってほしい。
いい加減、早く帰りたい。
というか、本当にこの生活を何とかしたいのだが
どうしようもない。

あとからあとから色々出てくるし、やり残しもたくさんある。

結果としてビジネスマンとしての信用を落としていく。

もっと話そう。

もっと、声を出していこう。

君は、あまりにも言葉を端折りすぎる。
子供じゃないんだか、誰かが君の意図を忖度してくれるなんてことはありえない。
10伝えたいなら100の言葉で向かうべきだ。メールでもいいから。

少なくともそれが、いやしくも言語文化学科を卒業した者の、
社会での勤めではあるまいか。

新年度です

日が改まって、新年度になりました。

お世話になった方々が社を離れていきます。もはや、昔の仕事ぶりややり方を知る人も少なくなりました。いよいよ、ぼくは、誰にも知られること無く、単独者として生きていかねばなりません。

誰も頼りませんし、誰も守ってくれません。
そういうところに、ぼくはいます。

一挙手一投足に、魂を宿し、全身で己を表現し、貫いていかなければ、生きていけません。

新年度は、そういうつもりで仕事をしていくつもりです。
日々が退職日であるかのように。あるいは、日々が、初任日であるかのように。

自分の中ではもうひとつ、「教育」というテーマを掲げたいと思います。かつてあった教師への憧れの力を、今一度呼び戻したい。それは、自分に対するものだけでなく、「後輩」であるとか、あるいはこれはかつてあった一つの素晴らしい文化ですが、「上司を鍛える」ために。

齋藤孝でも、久しぶりに読み返していこうと思います。