決定版三島由紀夫全集第6巻

を、読みました。所収は「金閣寺」「永すぎた春」「美徳のよろめき」。

「金閣寺」はもう何度も読んだ名作。なにより柏木と鶴川という脇役の造形は何度読んでも素晴らしい。かつてはぼく自身も鶴川のような友人が欲しいと感じた時期もあったものです。吃音を主人公に据えるのはたぶん平成現代の小説家にはもう出来ない芸当ですね。

「永すぎた春」はその名のとおり、ある東大生と、東大前にあった古本屋(木内書店というのがモデルなんだそうですが、今はもう無いようです)の娘さんの婚約期間の活劇。「永すぎた」というのは卒業してからでないと結婚するのが許されなかったためです。軽快で面白いですが、三島の好んで描く婦人像がこれでもかというくらい活躍します。太宰で言えば「饗応夫人」のような。

「美徳のよろめき」はあまり感心せず。心理小説という評価もありっちゃありですが、終盤に差し掛かるに連れて急に登場人物が増えるのはちょっと失敗作というべきでは??


Life and Debt

「ジャマイカ 楽園の真実」という映画を見ました。

「バビロンは彼らを狂わせ、西洋思想で洗脳する」

そこに簒奪や略奪や搾取はないか?

日常生活の隅々にまで自らに問い続ける必要があります。

スーパーマーケットで支払うそのお金は、フェアか? スターバックスで朝買うコーヒーの値段はフェアか? お前の務めている会社の商行為はフェアか? お前の務めている会社の海外投資はフェアか? 保護貿易を暴力的に撤廃させるのは誰か? グローバル企業の使命とはなにか?

そしてその結果、誰が儲かっているのか?

日本という国にいながらなにも考えずに生活することが既に誰かに対する搾取になっていることは、ままあることで、マクドナルドの子供向けセットのおまけが途上国の子供たちによって作られているという類の話はぼくが学生の頃から繰り返されてきているのです。グローバル化が常に経済の自由化とセットで語られるとしたらそれは強者の論理でしか無い。保護貿易の実施によって初めて担保されるフェアさもあるだろう。アメリカ式の大量消費社会が世界にあまねく浸透し、その結果その生活を支える経済機構が同じように世界を画一的に支配することを誰かが本当に目指しているのだとすれば、そしてその片棒を担ぐ様なことを誰かがするのであれば、それがきちんとチェックされる仕組みが成り立っていないといけない。いわば自分で作った書類に自分で判子を押してオーソライズする、そんなことをやっている国や首相がいることを恥じてナイーブになっているだけでなく、きちんと実行力のある監視がなされていなければならない。

とか、評論家的な立場でこんなブログにグダグダ書いていることが一番許せなかったりもするのだけれど……知ることはまず行動のための一歩として。


山川あいじ『Stand Up!』

「やじろべえ」で抜群注目作家の山川あいじですが、新刊です。高校生の恋愛もの。そういう意味ではものすごくスタンダードで、ものすごく王道です。けれど、ここに引きつけられるものがあるとすればやはり独特の絵柄、会話の間合いがとにかく魅力的だからでしょうか。「タッチ」の妙な間合いにもけっこう通ずるものがあります。

少女漫画のある一角というのはこれでもかというくらい学生の恋愛パターンをしゃぶりつくしているはずなのに、それでもまた読みたくなってしまうのはほんとうに不思議です。山川あいじの描く、女の子から見た「男の子」(男でも、オトコでも、同級生でもなく!)観は等身大で、無理なくこちらも納得してしまうところに秘密があるのかも知れません。


決定版三島由紀夫全集第7巻

を、読みました。所収は「鏡子の家」。

昔、読みさして結局読みきれなかった「鏡子の家」。なんとか読了しましたがやはり小説としてあまり面白くないという感想をぬぐい去ることは出来ませんでした。鏡子の家がバラバラの登場人物たちの紐帯となる理屈が全くよくわからないし、登場人物それぞれも得てしてミシマ的で、作者の趣味が見え透いているのが鼻につきます。作家としてはキャリアの中で挑戦すべき作品には違いないのでしょうが、作家自身がそれを意識しすぎて結局小説のための小説にしかならなかったのかな……というのが正直な感想。

と、言いながらうちの嫁さんは「鏡子の家」は好きな作品なんだそうです。小説の評価、好悪というのは難しいもんです。


できることならば

情報を一方的に消費するあり方を拒否したい。
モノを大事に使いたい。
本をゆっくりと読みたい。
大きな音を立てずに生活したい。
ゆっくりと歩きたい。
ギリギリの乗り継ぎで行動したくない。
荷物が重ければ途中でひと休みしたい。
無くなりそうな電池をいつまでもダマシダマシ使いたくない。
部屋の明かりは明るくしておきたい。
日用品をケチケチしたくない。
少ない在庫で生活を回したい。
洋服は必要最低限でありたい。
定番、シンプル、スタンダード、クラシックを価値基準としたい。
大きな声でしゃべりたい。
ゴミ箱は大きいほうがいい。
もっといろいろなことについて考えてみたい。
もっといろいろなことを書いてみたい。
考えながら書いてみたい。
昔読んだ本を読み返したい。
昔書いたものを読み返したい。
昔書いたものを書き直したい。
そういう時間が欲しい。
そういうことをしている自分を最大限肯定したい。
そういうことをしているとき「こんなことやっていて意味があるんだろうか」って考えたくない。
意味は最初からない。
極論すればすべて自分自身のために行動したい。
大きくて太い字を書きたい。
同じことをこの十年悩み続けてきたけれど、次の十年も同じことで悩みたくない。
記憶喪失になりたい。

いつまで経ってもなかなか出来ない。
なりたい自分になれない。


決定版三島由紀夫全集第8巻

を、読みました(連休中なのでハイペースです)。

所収は「宴のあと」「お嬢さん」「獣の戯れ」。

「宴のあと」は作品よりもプライバシーの権利、モデル小説の是非をめぐって裁判沙汰になったということで有名な作品ですが、かえってそれは日本の裁判史上も不幸なことであった三島は述懐しています。下の言葉は氏の芸術にかける意気込みというか、一つの作品を作り上げ世に問うていく真摯な姿というのがとても良く感じられます。こういうことをあえてちゃんと言う三島というのはちょっと意外なくらいです。

もしこれが、市井の一私人が、低俗な言論の暴力によつて私事をあばかれたケースであつたとしたら、プライバシーなる新しい法理念は、どんなに明確な形で人々の心にしみ入り、かつ法理論的に健全な育成を見たことであろう。原告被告双方にとつて、この事件は、プライバシーの権利なるものを、社会的名声と私事、芸術作品の文化財的価値とその批評的側面などの、様々な微妙な領域の諸問題へまぎれ込ませてしまつた不幸な事件であつたといふ他はない。(『宴のあと』事件の終末)

いまこうして作品として読めば、俗悪な覗き見主義など一つもないことに気がつかされるはずなのですが、モデルとなった政治家の逝去によって和解となった裁判の経緯もあり、なんとなく文学史的にはモヤモヤとした作品です(一方的なスキャンダラスな印象とのギャップ含めて)。「文学史的に」という言い方も我ながらどうかと思うんですが。

「お嬢さん」は新婚夫婦の活劇。若奥さんが自ら生み出した故のない嫉妬心に心蝕まれる様子が活写されています。まあこういうのはいつの時代も変わらないものです。全自動洗濯機やカラーテレビやインターネットが発明されても、人間の心の動き方はそうそう変わらないものなのでしょう。三島の現代小説はほとんどが映画化されていますが、「お嬢さん」も若尾文子でなされているのでどこがでこう……気軽に見られるものではないんでしょうか。

「獣の戯れ」は、なんともたまらない作品でした。読み応えのある、ゴリゴリの純文学です。三島による「罪と罰」と言ってしまえば簡単な紹介にはなると思いますが、凶器となったスパナの描写、作中での登場のしかたが、あまりにも本家「罪と罰」の斧と通ずるものがあるので余計にそう感じました。風光明媚な伊豆を舞台にしながら、中心となる三人の登場人物が出口を見出せずに自滅していく様子は、読みながら本当に息苦しいです。「潮騒」「金閣寺」など代表作の一つとしてもっと読まれてもいい作品のようにも思いました。写真に始まり写真に終わる構成もなかなか小説的な仕掛け満載で、それ相当の本読みにも耐えうる強度を十分に備えていると思います。

それにしても優子のような肉感的な年増女の描写が三島は上手い……。


お盆なので実家に

日帰りしてきました。実家と言ってもぼくが生まれ育った家というわけではなく、両親が引退を期に家を建てたので、新築の家を見に行ってきた、というわけです。しかし戸建ての広い家というのはやっぱりいいもんですな! そりゃ住めば住んだで色々面倒な問題はどこでもあるとは思いますが、今ぼくが住んでいるマンションとは違う楽しみ方が色いろあると思います。ただ、最終的に自分が持ち家を建てることを最終目的とするかどうかは別なんですが(サラリーマンのツライところ)。

帰りは、祖母宅にも寄ってお線香を上げてきました。

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