月別アーカイブ: 2013年7月

きょうにっき

月曜からまた仕事をぶん投げられる。

不動産屋に文句のメールを送ったが音沙汰なし。
あと家賃も文句言うだけ言いに行こうと思うのだが。

イライラしてはいけない…。

わからないこと

私は何を考えるべきか?
何を軸にして生活を進めるべきか?

自分の所属する世界についてもっと考えを述べるべきか?
むしろそこに所属しているからこそ本当に考えなければならないものであるはずなのに、声をあげることができないというジレンマに陥っているのではないか?
だとすれば私は何をここに書けばいいのか?

リベラルであるということは、単なる個人の思い込みなのか?
所属という事実をないがしろにすることは危険か?
経済的な余裕が無い限り個人のリベラル派実現不可能か?

私はもっと政治的でありたいと願うべきだろうか?
私はもっと経済に対して政治的な立場を明確に打ち出すべきだろうか?
私にとって文学とは逃避の場所になっていないだろうか?
私にとって文学とは、死ぬまでの単なる暇つぶしとなっていないだろうか?

私は誰かの真似をしないと生きて行けないだろうか?
私は誰かの真似をしないと不安で仕方が無いのだろうか?

私は私である、という単純明快な事実を受け入れることはできないのだろうか?

私はいつまで過去に拘束されて生きなければならないのだろうか?
私はいつまで過去を清算できないことに対して後悔し続けなければならないのだろうか?
私は過去を忘れることか出来るだろうか?
過去を忘れた私は私だろうか?

私は過去の私が目標としたものを追いかけ続けることを未だに是とすべきだろうか?
私は何かを諦めることでなにかを見出すことを恐れてはいないだろうか?

私が本当に考えなければならないことはなんだろうか?
私は、私が本当に考えなければならないことを知っているのに、そこからただひたすら逃げていないだろうか?

アンドレアス・グルスキー展@国立新美術館

に、行ってきました。

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「ドイツの現代写真を代表する写真家、アンドレアス・グルスキー(1955年–)による日本初の個展」ということで、前評判も良く興味が湧いたので行ってきました。写真家による写真展というよりは、現代美術家による写真の可能性の現在、といったほうが良いです。もちろん作品自体は90年代に撮られたものも多くありましたが、一貫して追い求めているものはかわりなく、それをデジタルの力を借りてより先鋭的な高みにまで持ち上げています。

とにかく、焦点というものが無い。無い、というか全てに焦点が当たっている。それも人の二倍くらいの高さのある写真すべてに。だからこれはデジタルハイビジョンのテレビを初めて見たときの違和感にもつながっています。どこもきれいに見えすぎてしまって一体どこを見れば良いのかわからない、という。

そしてそういう「どこをて良いかわからなさ」という武器を持って作者は「群衆」「情報の羅列」「作業の反復」といったモチーフに合う被写体を的確に探し出してきます。それは大衆消費社会への警告、とかそういう下らない「教訓」をすっ飛ばして、あくまでもこの作者のフェティッシュな視線に酔うという体験を豊かに与えてくれる展覧会なのです。

きょうにっき

相変わらず暑いのでクーラー効かせた部屋でゴロゴロと昼寝などして過ごしました。最近は平日の疲れが土日で全て回復しきれません。またQPコーワなど日常的に摂取しなければならなくなるのかしら。でも意外と効くんですよね、あれ。

夕方というかもう夜だったけど(昼食が遅かったので)買い物に出たらざっと雨が降ってきて雷もゴロゴロと鳴り出しました。帰ってきてからは窓を開けて扇風機。

それにしても最近みんなイライラしてるね。スーパーで店員に怒鳴り散らしている人をここ最近二回見ました。それ以外にも色々と。世の中も色々と嫌な事件が続いているし。自分の管理はきちんと自分でやっておきたいものです。

健康第一。つまりは、睡眠第一、です。

遅塚忠躬『フランス革命』

入門書としても一級ということで読了。岩波ジュニア新書の古い部類のものは、大学進学を控えた高校生に向けて非常に志高い言葉を投げかけてくる、その感じがとても良い。そして社会人になっても臆せずジュニア文庫を入り口にしていろいろな興味を深めていくことが大切でしょう。社会人向け(に限る必要は全然ないんだけど)の入門シリーズとして世の中にはどんな本があるのかいろいろ気をつけているのだけど、「図解雑学シリーズ」とか「知の再発見双書」とか「とんぼの本」とかいい本は探せばたくさんありますね。ジュニア新書も新装新たに、ますます発展していって欲しいシリーズです(装丁の丈夫さも若者向けっぽくて好感)。

『フランス革命』に突然興味を持ったのは『ベルばら』を読んだからですが、あらためて学術書を呼んで『ベルばら』の素晴らしさにもいろいろ思い至ります。

新潮日本古典集成『萬葉集2』

案外と鹿島の歌があってビックリする。芭蕉以前に文学史上鹿島が登場するのは常陸風土記くらいだと思っていたので……、と書きながら改めて検索すれば萬葉集と風土記はほぼ同じ時代だった。それにしても萬葉の時代の鹿島はどんなところだったのでしょう?

南部の浦潮な満ちそね鹿島なる釣りする海人を見て帰り来む

なんてのはやはり波崎の辺りのイメージなんですかね。