あともどり

モチベーションっていうのは見つけないといけないし、年齢によって変わっていくものなんだろうか。本当に仕事が辛い時、それでもやり続ける理由っていうのは、やっぱりそこが自分が選んだ場所だからっていう自己責任論に帰するんですが、ぼくの場合は。でも、例えば真面目に就職活動して東京電力に入社した新入社員たちや、入ったと思ったら不祥事で大変な目にあった雪印の新入社員たちはどうやって自分をそれでもその場にいさせることに成功したのだろう? もちろん一抜けたっていう人もたくさんいたのだろうけど。毎朝起きて、決まった時間に決まった場所に行く。何が、そうさせているのだろう?


あいまいな会社の私

一山越えたと思った仕事も掘り返されてまた大波小波の揺り戻しが早速あり、今日くらい早く帰って酒でも飲もうと思っていたのですがそれも叶わず。もうあんまり山だの谷だの考えず、常に頂を歩いているものだと考えることでしか精神の安定を保つすべはないようです。それでもアサインされる仕事があるっていうことはありがたい事だと、考えなければなれません。

とはいえ、室内は病魔が蔓延しており、順番にノロだのインフルだの風邪だので次々に倒れる中、ぼくだけは至って元気、ピンピンしており、そろそろ頭が痛くなって「あ、この調子だと明日休めるかな……」なんてことにならないかと甘い考えを抱くのですが、まったくその気配がありません。バカだからでしょうか、きっとそうなのでしょう。

書きたいことはいろいろあるのですが書けないこともいろいろあるのでなかなか発散の場所も無く、今日もいつもどおり曖昧なままの日記です……。


word press 始めました

このブログも長いことレンタルでしたが、この度word pressにすべて移管しました。

ちょっとは動作も安定するんでしょうか。思い立ったのは、単なる気まぐれではあるのですが……なんとなく、新しい環境を欲しているのかもしれません。過去記事はなるべくメンテに努めましたがアマゾンのリンクなんかが変な表示になっているところもあります。これはちょっともうどうしようもないのです、どうしようもなく暇なときがもしこの先あれば、ちまちま直してみようかとも思います。

あと、WPはあんまり複数改行を推奨していないようなので、こういう最近流行のパラグレフごとに区切って表示するのもうまくいっていないところがあるかもしれません。そもそもjugemからMT形式でエクスポートしたものをインポートするというやり方しか無いようでしたので、あまり細かいところまで手が行き届いていなかもしれません。

まあしかし大事なことは、少しでも前向きに、少しでも新しく、そして正直に感覚したことを記事にしていくことですから。こういう引越しも、外乱要素もありながら何度目かわかりませんが、今後とも宜しくお願いします。ミクシーやらツイッターやらからはいったん外しました。少し、沈潜したい季節なのです。


エヴァンゲリオン考(「Q」に向かって)

年末に一度、そして昨日もう一度エヴァンゲリオン新劇場版「Q」を観てきました。映画を劇場で二回観るというのはあまりないことなのですが、一回目の消化不良感に耐えられず、ネット上に日々生成される流言飛語、あるいは「冬月が『31手先で君の詰みだ』と言った31分後にカオル自爆」といった本当かどう分からないが本当にそうらしいという「ネタバレ」と称する各人の謎解きなんかも色々と仕入れ、「破」もビデオで見なおしてから「Q」をもう一度見てきました。

「破」が一度は父親に対して不信感を抱き世界を拒絶したシンジがミサトとの信頼を回復していく、あるいは彼が自分の欲望するもの=自我に目覚めるという大団円に向かっていく割と骨太な人間ドラマだったのに対して、「Q」ははっきり言ってしまえば「劇的」ではありません。

あまりに状況の変化が激しいのです。14年の時間が経過し浦島太郎状態のシンジと同じ視点を観客は強いられ、その状況変化の種明かしで時間の半分位が終わってしまいます。ミサトたちはネルフから造反し、新たな組織と新たな人材、新たな武器ヴンダーを操ります。このあまりに大きな状況変化に、ついていくだけで精一杯でもあるのです。

それはつまり、ぼくたちは旧劇場版までの長い物語を消化してきた中でシンジの学園生活や、ネルフという組織の中ではまるでぼくたちが毎日会社に通うようにミサトや加持が働いている姿をこの物語の大前提としてどこかで受けれてしまっていたからではないでしょうか。永遠の夏、永遠の少年、永遠の謎。それらは相変わらず物語の所与の条件としてどんと居座り、ぼくたちの「謎解き」はその周辺状況をかき集めてはペダンチックな方向へひたすら淫していく……そういったある種、この作品の周辺事情に対して自らのノーを突きつけてきたのが「Q」であると言えるかもしれません。

けれど「破」でセカンドインパクト前の人工的に再現された青い海にシンジ達が感激するように、旧劇までの長い物語も、エヴァの世界からすればほんのほんの一部しか描いていないとも言えます。セカンドインパクト前にはゲンドウや冬月の研究生活があり、ミサトは父との確執に悩む生活があった。セカンドインパクト後の本編では赤い海しか知らない子供たちの生活がある。そしてサードインパクトが……ということになれば、本編で描かれることに咲かれた時間の長短によって判断することは控えなければならないかもしれません。

つまり、エヴァンゲリオンという物語はいくつかの「インパクト」を契機に生物が絶滅しては誕生していくという長い長い命のプロセスを問題にしているのであって、むしろ人類が繁栄している時間は本編では長く描かれていても(そもそも人間、あるいは擬人的要素が出てこない小説や映画は想定しにくいのですが)、物語が前提としている気宇壮大な時間軸の中ではほんの一瞬出来事として捉える必要があるのかもしれません。

実際、劇場に足を運んだぼくたちは「破」と「Q」との間に重要なインターバルを挟み込まれます。それは「巨神兵東京に現わる」であり、もちろんこの作品をエヴァと同列に置くことには判断の余地をおかなければなりませんが、けれど、ここで林原めぐみが語りるメッセージ、つまり災厄は全てを滅ぼしてしまうかもしれないが次の新たな何かが誕生する素地づくりでもありそしてこの営みを長い年月をかけて生物は繰り返してきた……というのは、「インパクト」を災厄と読み変えれば自ずとエヴァ本編のも物語の構造に寄り添ってくるように思えます。

そこでは人間が生き延びんとする意志と、生物の「歴史」の意志とがせめぎあいます。そして「人間」という概念を、個々人の自我の積算とするか、「補完計画」によって心を一つに融合させ総体としての人類の意志として捉えるかとでヴィレ(ドイツ語で「意志」!)とネルフとはまたせめぎあっています。

さて「Q」の最大のテーマは「ガキシンジ」というアスカの評言にすべて集約されることでしょう。とにかくここまでひどいシンジは見たことがない、なぜこんなシンジが主人公に居座っているのか? という違和感は「Q」を見た誰もが思うはずです。

「破」の最後でようやく開花したシンジの主体性はどこに行ってしまったのでしょう? 気がつけば浦島状態で、唯一心を許せていたであろうミサトからも不要のレッテルを貼られた(ように思い込んだ)シンジは文字通り茫然自失に追い込まれます。「Q」のシンジはこれ以上の内的展開を見せてくれません。

作中でシンジとの対話の相手はほとんどがカオルでしたが、「Q」が決してシンジとカオルとの友情が育まれていく心温まるストーリーと言えないことは確かで、それはシンジの主体性が完全に滅失しているところに原因があります。目覚めてからレイの声が脳内に反響して「レイはどこだ!」と怒鳴りちらす様や、「君が言ったんじゃないか」「ぼくはどうしたらいいんだ」と執拗にカオルに繰り返す様は、精神に異常をきたした者のようにしか見えません。それはひとたびカオルから「REDO」のための解決策を提示されてそれに飛びつき急に活き活きとし始める様も含めてです。状況判断を完全に他者に預けてしまっています。完全に自らの意志を失っています。アスカの顰に習えば、理性を持った近代的自我が発現する以前の幼児=「ガキ」でしかないシンジがゾンビのようにさまよい歩くのが「Q」です。

「人類補完計画」というのが、結局のところ個々人の自我や個性をすべて融合してしまうことであれば、それは「近代的自我の目覚め」みたいなものとは真逆にある考え方であって、エヴァンゲリオンというのは登場する個々人のキャラクター=人格と、「人類補完」というキャラクター不在の世界・状況との拮抗の物語であるとも言えそうです。

「破」のラストシーン、つまりカシウスの槍によって「サード・インパクト」がニアミスで終わったというのも、シンジという「自我」によって図らずも引き起こされた非「自我」への世界の扉を、カオルという別の「自我」が引きとどめた、というこれぞまさに拮抗と称するほかありません。もちろん「Q」では結果としてサードが引き起こされ、物理的な自我が壊滅せられたという悲しい現実を開陳されるのですが……。

けれど、この非「自我」の世界は本当に「自我」の対立項なのでしょうか? ゲンドウは実体としてのユリを失って以来、ユリを「取り戻す」ことを常に念頭においています。ここにゲンドウの意志のすべてが集約されているし、あるいは彼の急所でもあるとも言えます。一人の男の妻への追慕のみが、先の対立項を引き起こしているのだとすればこれだけ複雑怪奇な因果関係をまき散らしながらも、本質はあまりにも悲しい物語だと言わざるをえないのかもしれません。

宇多田ヒカルのエンディング曲があまりにも良かったです。赤い大地を歩いて行く三人の儚げな後ろ姿とよく合っていました。


心がけ

自分がとても運がいい
自分はとても人間関係に恵まれている

自分については持てる時間の半分すら考えてはいけない
「あなた」について考えることが、最終的には自分を形作る

イニシアティブを取るためのマイペース

相手の言うことをよく聞くこと
コミュニケーションを焦らないこと
要は、わからなさに耐えること
わからなさに対して問いかけること

問いかけることが自分のペースを生み出す

などなど…

もうあまり、斜に構えず、この生を続けるということを大前提にして
色々なことを進めていくべき時だ。そういう前提に立って
今を構築していくべきだ。


話題沸騰中の鷗外記念館に

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行ってきました。ポスターもいまなら付いてきます。

展示スペースは本当に方寸という感じでしたが、レプリカも混じりながらも興味深い一次資料が展示されていました。
いろいろと企画展も今後やっていくみたいなので定期的に足を運んでみたいかもと思いました。

例によって上映VTRで平野啓一郎がいろいろとしゃべっているのも見られます。

曰く、漱石に比べて圧倒的に人気がない鷗外。でもヒロイックな登場人物が努力をする尊さもわかるが、鷗外の描いているのは、そうする以外どうしようもない状況に陥っている人間の姿、自分ではどうしようもないことも世の中にはあるのだという「諦念」である、と。そして震災後にあらためて読み返すと、そういうどうしようもない運命に対する人間の知恵が癒しを与えてくるという。

「諦念」の一概念で作家の作品を縦櫛にできるかどうかはわかりませんけど、従来のように「歴史其儘」「歴史離れ」とか「知足」とか「ドイツ土産三部作」とか個別のキーワードで読み解く国語教科書的な読みではなくて、鷗外がその文学活動を通じて何を表現したかったのかという問いの置き方は、結構見て見ぬふりをしてきたものかもしれません。

つまりは、鷗外の場合一つ一つの作品が巨大すぎて、通覧という視点に立つのがなかなか難しいので個別の作品論をやっつけて?外をあたかも語ったかのように錯覚してしまうのはままあることかもしれません。
そうではなくて、鷗外全集を通読したときに「ああ、この一人の作家は生涯こいつを追求していたのだな」と腑に落ちるものを見つけられるかどうか、ということなんでしょうね。

そういう意味で、やはり再読三読、読み尽くせない作家であることには間違いないのだと思います。


家を建てました

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三が日はひたすらのんべんだらりに徹しました(今もですが)。まあ読み終わりたかった本を読み終わったり、読み始めたかった本を読み始められたりそれなりに脳の活動はしているつもりです。

昨日は映画を見に行きました。『レ・ミゼラブル』です。どうしてこんなモノを映画にできるのかと思いきや、ミュージカルを映画にしたもので、それでも160分の長尺でした。個人的には遡ること中学二年の頃に同作とロランの『ジャン・クリストフ』を完読したのが自分にとっては文学の目覚めみたいなものだったので、久しぶりにコゼットやマリウスの活躍を目の当たりに出来たのが嬉しいものでした。原作はもっと色々伏線とその回収に舌を巻いたような覚えもあるのですが、まあそれを置いておいてもうまくまとまっている作品でした。ミュージカルがベースなのであまり小難しい話はなしです(ワーテルローの戦いの描写とか、パリの下水道の歴史とか…)。

そういえば修道女さんみたいな人も見に来られていたのだけれど、どういうふうに見るんでしょうかね。基本的には愛だの正義だの神の存在だのの話なので、それが娯楽として供されている所も含めて色々と考えるところがあるのでしょうか。それともお正月の息抜きだったりするんでしょうか…いずれにせよレディースデイだったので女性ばかりでした。

あと我が家では珍しく家電を買いました。ブルーレイレコーダーです。基本的に嫁さんも私もあまりテレビを見ない方なのですが、それでもやっぱれたまに見たいものがあって録画しておきたいよねということで買いました。色々見たけど各社一長一短で、しかも色々独自規格で囲い込みとかしていたりしているので個人的には途中で結構イヤになったんだけど結局某社の型落ちを結構安く変えたのでそれにしました。

でもお正月は店員さんも素っ気無いしレジ打ち間違えたりするし、たぶん動員で呼び出された社員がエレベーターガール(死語)やってるんだけど目が死んでいたりしているので全日本的に休んだらいいと思うのだけど…。我が住まい近傍の某百貨店も敢行を廃して正月からセールスしてたけどどれくらい費用対効果があったんだろうか。正月割増でちゃんと給料払われているんだろうか。動員の掛かった社員の家族生活をぶち壊していないだろうかとか、いろいろ心配してしまいます。この前読んだ『ザ・ゴール』にも価格の決まり方についてメーカー目線じゃなくて市場目線で考えろみたいなことも書いてあったのだけれど、サービス業とか小売業でそれをやると泥沼だよなあ…。とりあえず該当期の百貨店の業績動向に注目していきたいと思います。

ところで写真は嫁さんの正月の課題でした。今は解体されてボリボリと口の中へ運ばれています。


謹 賀 新 年

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ぼくはあんまりこのブログの読者様を想定したことがないのですが、もし定期的に読んでいらっしゃる方がいらっしゃれば、今年もいろいろと心のつぶやきにお付き合いいただければ幸いです。なんというかね、もう少し前向きに今年は行きたいですね。現状維持ではなくて、一応三十年生きてきたんだから、それなりに変えられるもの、変えられないもの、いろいろと自分の中でもはっきりしてきたと思うし。とはいえ、変化を恐れず歓迎し「しなやかに軽やかにスタイリッシュに」つまりそれはいい意味でいい加減に、いい意味で適当に、いい意味で優柔不断に、といういつもよく言ってるやつです。

それでは今年も宜しくお願いいたします。