やまやまやまやまー

金曜日はようやく新しい会社に来て初めて一つのアウトプットが出来たというのがあって、部長含めて飲みに連れていってもらう。ひたすら美味い焼肉であった。「生焼肉」と店頭に書いてあるのがどういう意味か最初分からなかったが、とにかくちょっと火にあぶるくらいで十分に楽しめる肉ばかりなのだった。

一ヶ月前にほとんど初対面の中でやった「懇親会」に比べれば、確実に一つ階段を登った気がする。あるいは、そういう気にさせてくれている上司もなかなかの「手練者」というべきか。そういう意味で、もっと気を遣おうと思ったりもする。

やはり、会社というところは仕事で人が繋がる場所なんだろうと思う。仕事はそこそこにして毎日「親睦」「融和」と称してさっさとよくわからない人たちと飲みに行っても楽しくないのでは? 割り切って言ってしまえば一緒に仕事をしないのであれば別に一緒にいる必然性はない人たちなのだから、そういう関係性を軸にしていればいいのだと思う。それはどんな場面でも一緒だろう。末端社員なのだから社員全員の名前を覚えて、全員に自分のことを知ってもらう必要はない。それは、夢見がちな幻想ではなくして、現実的にさ、そういう風に思えば少しは楽でしょ。

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無所属の視点は忘れないようにしたい。ある意味では有利な立ち出自だ。世間知らずという「世間」とは一体どこからとこまでのことをいうのか、しっかりと見極めるべし。

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わからないことに耐える必要はなくて
わからないことを見つけて、そうやって
人とつながっていけばいい。チャンスを
見逃してはならない。

だから慌てる必要もないし、キョドる
必要もないし、原則として。

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で、今日は本当は会社に行こうと思っていたのだけれどさすがに身体が悲鳴を上げていてふらふらと昼寝をして起きたら日が暮れていた。明日は美容院に行くので、それからちょっと出てこよう。


日記、引き続きメモ

はっと気がつけば残業時間が三桁目前にはなっているものの、なんども繰り返すように全体像が一向につかめないカフカ的状況の中で日々手を動かしているため、この速度感は引き続き持ち越されるのではないかというのが正直な感想である。そして、さすがに「若さで乗りきれるのも今年くらい」だとさすがに今年は本当に思うので、まあそういうのも含めてちゃんと記録しておこう。会社で配られたメンタルヘルス対策の冊子にはブログを書くことが推奨されていたから、たぶん、バレでも大丈夫なはず。

別にぐちが言いたいわけではない。同じような状況はどの場所にいても必ず巡ってくるものだし、今が今までで一番しんどいかと言われればそれはさすがに「ノオ」である。もっとひどいときはいくらでもあった。

では何がこれまでと違うのだろうか? それはまず間違いなく、この状況自体に疑問が持たれるか持たれないかであろう。あるいは、もたれないことを前提としてある部分の人々は全体の人々を処する。救いがない、とは言わない。意識が高くて結構ですね、と揶揄するつもりもない。今のところこの長距離重量級マラソンについていけるだけの体力と知力とは持ち合わせているつもりだけれど、いったいこれが46キロという規定の距離に基づいたものなのかがわからないのだ。ゴールがわからない競争はペース配分がわからない。

したがって人々は常に既に全力である。

ここには巧妙な人事的・文化的・組織的狡猾さがかならず密かでいるはずだ。ある個人が特別オカシイわけではない。ちょっとずつの「今だけだから頑張ろうよ」「今週頑張ったら飲みに行こうよ」が、いつの間にかものすごく巨大な暴力の動力源となっているのを見逃さずにいられるか?

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・速く歩くこと
・背筋を伸ばすこと
・慌てないこと(あきらめること)
・お風呂には速く入ってしまうこと

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自己イメージはけっして自ら把握できない。
自己イメージを見ようとすること自体ナンセンスである。自分の足の裏を眺めようとしてすっ転びたくなければ、他人から自分がどう見えるかとか、自分を他人にどう見せたいかとかそんな下らないことには一秒も頭を使ってはいけない。
思ったとおりにわめくしか無い。わめけばいいんだ。何が悪い?

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「福島でおいしい野菜が取れました」というのは単なるイメージだけど、それを電車内の電子広告で県が宣伝しているというのは立派な一つの「情報」だろう。

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明日の為にさっさと寝る。


メモその二

しかしながら結局一介の歯車たる一個人はもう一つの歯車との組み合わせの中でしか自らを規定できないのかもしれない。その歯車を動かしているのがどの歯車で、その歯車を動かしているのがどの歯車で…というのを延々と遡っていったところで、全体がつかめるのではない。それは結局会社は誰のものか? という禅問答とよく似ていたりもする。だから、目をつぶる。耳をふたぐ。そんな選択肢もあっていいのではないか。歯車たることに矜持を見出し、たまには逆回転してバタフライ効果をうっかり期待してみたりする。そうして十年、二十年が過ぎるのもまた良いではないか。

私は
にんげんがすきなのだよ
だから
帰る場所がないのだよ
五時の
長いおんがくが
とぎれたら
私は私を処理しよう

──三角みづ紀「ソナタ」『オウバアキル』

ぼくは笑う、高らかに。まるで歓迎されているかのように。そうなんだ、すべては「かのように」を演じきったものの勝利なのだ──本当に?

漱石の「私の個人主義」は年年歳歳、読み返すたびに違うことを教えてくれる。


断片的なメモ

そして、常に既にぼくたちは断片的にしか物事を語れなくなっている。これは質の悪い冗談だ。したがって、あまり冗談になっていないところが、ある。

組織とは、ある一定の量を超えるとビューロクラシーを奉ずるしかなくなってくる。だって、五人の組織の中のあなた一人の価値と、千人の組織の中のあなた一人の価値とは残念ながら大きく異なるし、残念ながら組織の大きさにきれいに反比例する。だって、人一人が扱える仕事量なんてすぐに限界が来てしまうから。「そんなことあるはずない!」って言っている当のあなただって、目の前にいる人間のことを1/5ではなくて1/1000としてすぐに扱うようになってしまうだろう。

ビューロクラシーにおいては、絵に書いたような上意下達というわけではない。中心はむしろ存在を隠している。けれど人々の心は既に「自己植民」に蝕まれている。一人一人は話も通じるし、こんなところであっていなければうまい酒を呑む仲間にもなれたに違いない。けれど、ぼくたちは組織の中の一人だ。その時、「こうすればこうなるに違いないからこうしておこう」とか「前例から言ってこうなる確率が高いから事前にここまでやっておこう」とか「どうもこういうことが前提となっているようだからここまではやっておかないといけないな」とか、それはものすごい自己検閲が人々を動かしている。

かえって、人と人との関わりはクールで最低限で、言葉数も多くはないだろう。なぜそこでスケジュールについて文句が出ない? 隣の部はどうしていると一言出ない? おいおい、俺達はこうしたいからこうするぜ、という「俺達」はどこへ行った?

それが消耗だということをみんな知っているのだ。だからできないとはできるだけ自分の時間で穴埋めする。不夜城。あるいは、土曜日曜の休日出勤。仕事の持ち帰り。それが一番効率よい仕事のスタイルなのだ。そうでしょ? どうせやらなければならないのだから。

全体、とはなにか? それは最後まで把握のできないものだ。

議論は無いのだ。あるのは情報の伝達だけだ。そしてそれをいち早く嗅ぎける嗅覚。つぎには「こうなりそうだから今からこれをやっておこう」と口を開き、誰に頼まれたのでもないのに自分を脅迫していく。