カレー

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嫁さんより一足早く冬休みとなったのでカレーを作りました。

ちなみにぼくは大学時代実家暮らし→入社してから食堂付きの寮→結婚、という経緯を経ているので料理などしたことありません。これから色々とチャレンジしていきたい。自炊できると老後も困らないというし……!

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』

を、読みました。
 

なんといっても、昨年末くらいからNHKの「白熱教室」として紹介されてよりブームが続いているマイケル・サンデル。氏の著作の文庫化ということで、本屋で手にしてすぐに購入しました。

 

一連のブームはぼくたちに二つのことを教えてくれた、あるいは衝撃であったと思います。

 

一つは氏の教授スタイル。あれだけの大規模な講堂で対話を軸にした授業を展開する技術には舌を巻くものがあります。日本の大学で同じ規模のマスプロ授業であれば教壇にあれだけの訴求力を持たせるのはほぼ不可能です。いえ、むしろ「不可能だ」と考えてしまうことがとんでもない先入観、諦めもいいところだということに気付かされる、そのことのはっきりとした反例を目の前で展開されたそのことが多くの人にとって衝撃だったのだと思います。

 

氏が学生に対して活発に問いを投げかける。それに対して周りの数に臆すること無く、あるいはこんなことを言ったら笑われるのではないか? などといった無駄な遠慮もなく討論が始まる。氏はきちんと一人一人の名前を確認して、フィードバックも活発に行いながら議論を誘導していく。シナリオなんて存在しない。議論をするということそのものが授業として成り立っている。このことを稀有な例として受け止めてはいけないのでしょう。このことが、マスプロであっても可能だということにぼくたちは気が付くべきなのでしょう。

 

そして大学教育とは、あるいは哲学をするという本当に原初の営みというのはギリシャの哲学者たちが行ったように対話を基軸とすべきだということを教えられます。哲学とは、誰かの考えたことをノートに書き写すことではなくて、目の前にある問題に対して仲間と議論をすることなのだということを、あの番組を通じて知ることができます。

 

もうひとつは、「公共哲学」というものが語られる素地が日本にはまだまだ不足していることを否が応でも認識させられることです。本を読み進めるに連れて、アメリカという国がいかに「市民」であること、自分が合衆国を形成する一員であるということを各人に自覚させるかがわかってきます。国の成り立ちが違うのですから、そもそも「公共」を議論の対象にするということ自体がなにか「寝た子を起こす」という発想になりかねない日本とは違うのかもしれません。けれど、現代という時代においてはむしろ各人のコミュニケーションが薄れ、地域の共同体も弱体化しているということは日本においても事情は同じです。この本では「公共」を語る「言葉」についてしつこく解き明かしています。非常に論理的です。ケネディの言葉、オバマの言葉……政治家たちが国民に対してなにが大切でなにが大切でないかを語ったその言葉に対して検証を加えていきます。

 

今の日本でそんなことが可能でしょうか? 言葉を検証すべき政治家が今、存在するのでしょうか?

 

一方で、「素地が日本にはまだまだ不足している」などと非評価めいた感想も述べてしまいましたが将来的に不足が解消される楽観的な見通しは全く無く、むしろ今の日本の政治家たちの言葉の不足に暗澹たる思いにさせられます。たぶん、無理でしょう。

 

と、言っても始まらないので、少なくともぼく自身は自分の言葉を鍛えることをこれからも続けていきたいと思っています……。

 

今本は、読んで終わってしまってはいけない、色々な問題を提起してくれます。NHKの番組ともどもおすすめ。

仕事納めにはまだ早いが内省の辞をば。

仕事の大きな山を越えました。年が明けたらまた一山登らないといけないのだけれど、年内は後そのためのスケジュールを考えることくらいで仕事納めになりそうです。

忙しい時ほど、自分がなんなのかを失わないようにするために自分について考えることが多いような気がします。反射的な対人反応を繰り返していると、本当に自分が何処かへ消えていってしまいそうで、よく会社の行き帰りに携帯電話のメモ機能を使って自分に問いかけるような文言をぽちぽちと打ち込んだりしては、たまにそれを読み返す、なんてこともしていました。

そういうのは、たぶんやろうと思ってやることではなくて、やらざるを得ない時に人は、勝手に手を動かているのだと思います。自己防衛本能みたいなものでしょうか。

長い時間を会社で過ごしていると、一人の時間というのはほんとうに少ないものです。たとえ一人で机に座っていても、いつ誰に呼ばれるかわからない、いつ無茶苦茶な要求を突きつけてくる電話が鳴るとも限りません。

例えば定時になって電話も鳴らなくなって、周りの人達も三々五々帰っていって、そろそろお腹もすいてくる……なんていうときになって初めて自分一人の作業に没頭できます。

もちろんこういった時間の使い方は無駄と言う人もあるでしょう。いかに定時内で集中するかが問題なのであって、日本のホワイトカラーの生産性の低さ、なんてどこかで聞いたような話を振りかざされれば、ぐうの音も出ないことは否めません。

以前の職場は室内でも横のつながりが多く、ちょっと悩んだら色々と聞いて回ったりちょっと会議室にこもって少人数でブレストをやったりというのは簡単にできたものです。今は割と他部署との協業が大きくて、いかに迷惑をかけずに=現場業務担当部署に時間をかけさせずにひとつの仕事を仕上げていくという方が優先されます。

これは職場環境や組織体制の違いによるところが大きいのでどちらが良いとも悪いとも言えません。

ただ、遠廻りこそが近道、ある程度の時間をかけなければブレイクスルーポイントは訪れない、という経験則からも一人でじっくり考える時間というのはどうしても必要です。一人で考えるというのはどういう事かというと、あらゆる想定質問を自分に投げかけるということです。自分がやろうとしていることに対してツッコミを容赦なく入れていき、それに対して一つ一つ答えていくということを独りでやるということなのです。

そういう時、「この人ならこう言うだろう」というパターンをいくつもストックしている事が必要です。私にも仕事のやり方とか、人への説明の仕方とか色々真似をしてみたい人というのはいて、そういうサンプルを普段から収集しておき、いざという時に自分に向かって「これでどうだ、これでどうだ」と追い立てるために呼び起こします。

逆説的なようですが、そういう時に自分のオリジナルをちゃんと保っていないとまったく対話にならないです。自分はこう考えるけど、こういう考え方もある、その違いはこうでこうで、こういう場合はたしかに有効だけど、今はそんなことを行っている場合じゃない……ということを一つ一つクリアにしていく。その過程で、鍛錬される、前景として浮上してくる、ノミを穿つことによって現れてくる彫刻がまるで石の中に最初から眠っていたかと見紛うばかりの「自分」の形というものが、スタイルが、立ち現れてくるように思います。

このブログも、ブログを書くことによって同じようなことを実現できる場所にしていきたいと思っています。自分が何に感動し、何を許せなくて、なにをしてきたのか、すべきなのか。そういうことをちゃんと記録しておかないと、と、なんとなく年末が近づいてくると妙に内省的になってくるものです。 


大崎善生『聖の青春』

大崎善生という作家の名前は、ぼくの中ではどうも『セカチュー』以降ある界隈でもてはやされた恋愛小説家の一群の中に位置していたのだけれど、まったくふとしたきっかけから手にした『聖の青春』の文庫本にその名前が記されているのを見て驚愕し、表紙の裏に書いてある著者略歴を読んで二度目の驚愕をした。

しかし今日ここで語りたい驚愕は、他でもなく『聖の青春』についてである。

正直に言って、将棋とは縁のない人生であったが、ここにこれほどの人間ドラマがあるなんてことをぼくは全然知らなかった。久しぶりに会った大学の先輩と後輩とがかねてから将棋好きで、そんな話もちらほら出たので、本屋で見かけた『聖の青春』を、読んでみようと思った。名前は知っていた、たぶん彼が亡くなった頃にTVなどでその生い立ちくらいは目にしていたはずだ。

ここには、ぼくの生きられなかった人生がある。逆もまた真なりだ。彼の生きられなかった人生を、ぼくは今いきている。二十九歳で亡くなった村山聖と、同じ年令にぼくは今いる。けれど、彼が成し遂げた業績の1ミリにだってぼくの人生はかなわないじゃないか、なんて口先三寸の人生論を語りたいわけではない。決してそうではなくて。

変わらずにあることの強さ。変わらずにあることの弱さ。

変わり続けることの強さ。変わり続けることの弱さ。

それのどれが正解とも思わないし、どれが優れているとも思わない。ただ、彼の人生とぼくの人生との間に大きな溝がある。これを覗き込む。震える足を無理やり地面におしつけて、ぼくは上半身からその深さに驚愕する。全身に震えが伝播する。

なりふり構わず好きなことに猛進する、その賭けに乗ることしか出来なかった。それだけが彼の人生であり、その限界から大きく道を拓けた。もちろん誰の命も有限であり、夭折の美学なんて持ち出す必要はない。ただ、最後五連勝の後に五つの不戦敗が続き、途絶える。これこそが「生き切る」ということなのだろうと、考え込んでしまう。どんな瞬間も、将棋と共にあった。どんな瞬間も共にありたいと思うものを信じ続けた。そこに、打たれるではないか。

忘れていたものを思い出させる。彼はある意味で子供のまま、そのままの勢いで走り抜けた。走りまわることを禁じられたその代償に、将棋盤の上で暴れまわった。そういう種類の勢いを、多くの「大人」たちは飼いならされてしまうんだな。

『三月のライオン』も読みなおす。この漫画の異常な「熱」ももう少しだけ近づくことができるかもしれない。なぜ将棋なのか? なぜ「たかが将棋」にこれほどの人間ドラマが巻き起こされるのか? 奨励会や名人といったシステムも、誰かが考え、近代将棋としての制度を作ったのだろう。それも、どこまで恣意的なものなのかわからないじゃないか。これが、会社にいる人間だったらシステムに対して、組織体制に対して簡単に軽口を叩く。あるいは、簡単に組織改正もなされていく。いつまで続く変わらかない枠組みの中で、これほどまでその「勝負」にエネルギーを投入し続ける、その真剣さはあるいは愚かとさえ言う人もあるかもしれない。けれど、馬鹿にならなければ見えない世界がある。バカにならなければ、バカにならないと見えてこない世界があるということも、気がつかない。

自分が他人にどう見えるか、なんて気にしないで、全身全霊をかけるそのとてつもなく生きた証しがこの本の中にいる。そういう人生は可能だ。そうでない人生も可能だ。そうでない人生を貶めるつもりは毛頭ない。でも、村山聖のような人生もあるということを知っておくことは必要だと思う。