「脱原発」「嫌韓流」と言う人達の曇りなき眼〈まなこ〉について

震災以降、世の中がどんどんギスギスしてきているのは、たぶんさすがに鈍感なぼくとても気がついていて、日々大新聞の見出しから某巨大掲示板のまとめ記事まで目にしていると違和感ばかりがつのってくる。どこかのタイミングでそれを言葉にしなければならないな、とぼくは感じていて、でもその作業を想像するととてもおっくうで嫌な気分ばかりが増しているのも確かだった。

ぼくはこのブログではあまり時事ネタはやりたくないし、情報の整理のようなことも時間がないのでやらないのだけれど(世の中にはそういうのが得意な人はたくさんいる)、この種の嫌な感じについては継続的に観測する必要があるという漠然とした思いはあって、あまり拙速に言語化して解決した気にはなるまいと考えていた。それは今でも変わらない。ただこの「わからなさ」を耐え忍んでいるということだけを、描出していきたい。

何人かの芸能人・著名人は自分の中に眠っていた政治性をうっかり見出してしまって、にわかに「脱原発!」と大きな声でつぶやいてしまったらしい。それは3月当初から今にいたるまで散発的に起こっている。最も政治から遠いと思われていた人たち、あるいは(だからこそ)政治的啓蒙キャンペーンやある種の企業の宣伝活動に対価と引換に駆り出されてきた人たちが、「もうこれしかない、デモに行くしかない、仕事辞めて掛けるしかない」と息巻いて頭に血を上らせている。

おそらく彼らは自らが特権的な立場にあるという意識が希薄なのかもしれない。自らの知名度をもってすればデマゴーグなど容易であり、組織的にメディアに対して働きかけることだって可能である、なんていうところまで考え抜いて自らの立場を表明している人がいれば、誰か教えて欲しい。

ぼくは別に今さら「脱原発」だのと言いたいわけではない。ぼくは別に誰かを批判したいわけでもないし、そういうことを念頭に置いてこれを読んでほしくはない。国が悪いだの東電が悪いだのと言いたいわけでも決してない。ただ、そういうことを真顔で、それが絶対的に正しいと大真面目に信じて疑わずに「脱原発」と言ってのける人たちに対する、どうしようもない違和感を告白するだけだ。

だって彼らが今信じているのと同じくらいの真摯さを持って、どこかの誰かが原子力発電所を建て始めたのだ、きっと。科学技術の進歩が核の安全利用を可能にした、しなければならない、化石燃料の依存から脱しなければならない、と信じて。その「正しさ」はたぶんいま太陽光発電や風力発電が「正しい」と信じているのと同じくらいの「正しさ」だったんじゃないのだろうか?

風力発電のあの大きな風車が、山の上や海岸に立ち並ぶ「完成予想図」を見て景観破壊だと息巻いていた人たちは今、どうしているのだろう? 原子力は悪で、自然エネルギーは善だなんて誰が決めたのだろう? 結果的にそうであったとしても(そうである可能性は高のだろうけれど)、あえて反対側から検証することをもう一度しなければ、原子力しか未来は担えないと刷り込まれていたことの反省点に立ったとは到底思えない。

たとえば話は全く変わるようだけれど、最近のアニメ『とある科学の超電磁砲』『魔法少女まどか★マギカ』などを見ていても、感じるのは背景にある風力発電の風車の異様な多さだ。おそらくぼくよりもずっと若い世代に対して、未来の都市の姿(の正しいあり方)というのはこういうものだというすり込みは既に始まっている。すり込む側もすり込もうとしてすり込んでいるわけではないだろう。「近未来的な雰囲気=風力発電の風車」という図式を意識の前景にまで浮上させる必要は、少なくともモノを創っている人間ならばあるだろう。

今後もしも芸能人・著名人がこういった原子力代替エネルギーの啓蒙活動に際して政府なり企業なりからお金をもらって出演することがあれば、ぼくたちはもっとそういったことに懐疑的な視線を送る必要がある。かつて原子力を推進したのと同じ手法で自然エネルギーを推進するのであれば、そのあまりの歴史性の欠如にぼくは涙が出るくらいむせ返ってしまうことだろう。繰り返すけれどもぼくが違和感を感じているのは「脱原発」に対してではない。「脱原発」が正しいと信じて疑わない人たちの曇りのない純粋さに対してだ。

仮定の話が多すぎたかもしれない。しかし現に世界で唯一の被爆国である日本という国が60年あまり経ってから「脱原発」なんて言い始めることのある種の薄ら寒さ、これは少なくともしっかりと感じ、その自己矛盾、自己欺瞞、あるいは自己批判の欠如に対して苦しんで苦しんで苦しみ抜く必要はあるだろう。それもしないうちから昨日まで湯水のように電力を使っていた小市民が軽々しく口を開くべきではないのではないか。

村上春樹は「核に対してノーと言い続けるべきだった」と言う。全くその通りだ。彼の発言にだれも反対はしない。「いやいやいや、核に対してイエスと言うべきでしょう」なんて誰もつっかかっていかない。そのことが既にもう、安全圏からの発言じゃないのか。だれも反対しないことを言っても、その時点で既に声を張り上げる必要なんて無いのだ。それとも「あなたの物事に対する考え方は非常に独創的で示唆に富んでいます。いやあ、素晴らしいレトリックにしびれましたよ」なんて言って欲しかったのだろうか? これは別に村上氏に限った話ではないのだけれど。

外から見れば「お宅の国はこの60年間、何をやってきたの?」と、言われても仕方がない状況だ。もちろんひとつの国家・歴史を擬人化して60年前から引き続く同一の人格をでっち上げることのロマンティシズムは危険だ。

しかしぼくたち個人は一つの人格としてたとえば義務教育の中で歴史を学び、そこから教訓を得てきたはずだ。戦国武将の生き様を色眼鏡にして現在のサラリーマン生活を見通すのもいい。ローマ人の活躍に心を踊らせ、一方で滅ぼされていった文明や民族に思いを馳せる。第二次世界大戦、あるいはヴェトナム戦争、イラン・イラク戦争から平和を学ぶ。現在という一点においては、ぼくたちはこれまでのすべての歴史を背負った上で物事を判断していく。それは人間が人間として生きる上での責務だろう。だからぼくたちはすぐにこの地震という災厄から多くの教訓を得ている。そして解決のできない問題に対して様々なアプローチをしようとしている。

ある日を境にしてポリティカルコレクトネスが百八十度反転するということは、やはりこれまでも繰り返されてきたし、ぼくたちは自国の歴史においてもついこの前それを体験したばかりではなかったのか。正義なんて大嫌いな言葉は使いたくないけれど、ぼくは絶対的な悪というのは認めるけれど絶対的な正というのは存在しないんじゃないかと疑い続ける。

懐疑主義転じてニヒリズムに陥ることは潔しとはしないけれど、この2011年が抱える「わからなさ」「どうしようもなさ」に、もう少し辛抱強く付き合えないものかと思う。ツイッターで脱原発をつぶやく前にやることはいくらでもあるんじゃないかと思う。「脱原発」なんて思考停止の魔法の言葉を持ち出す前に、もっと自分の言葉で考えてみようよと、思う。事実を捉え、それに対して自分がどう考えるのか、受け止めるのか、もう少し時間をかけて、周りのざわめきにはあえて耳を貸さずに静かな場所で見極めようよ、と思う。きっとすぐに解決できるものではないのだから解答をあくせく探し回るのではなくて。

ここからは半分余談。

「脱原発」と言っている人たちの純粋さは、フジテレビを批判する人たちの純粋さにもどこか通ずるものがある。「がんばろう日本」の掛け声がいつの間にか「韓国ドラマは見たくない」にすり替えられてきている。9.11後のアメリカ国内の様子をぼくは直に知る者ではないけれど、国難にあるときナショナリズムが高揚するのはある程度仕方が無いのかもしれない。

もちろん「がんばろう日本」というのは良心的なナショナリズムであるし(三島であればお茶漬けナショナリズムと茶化すところなのだろうけれど)、こういう気分は、「震災復興支援」があらゆるものの枕詞になるくらいファッション化(陳腐化?)するまで浸透したほうが良い面も多いだろう。

けれど、フジテレビの問題には悪しき民族主義が奇妙にすり替えられて跋扈している。あれほど冬のソナタにはまった国民性が一気に反対を向いている(一部の風潮ではあるのだろうけれど)。これはいったいなんなのだろう? 国家陰謀説なんて本気で信じているのだろうか? 今さらテレビだけがニュースソースだという人なんていないだろうし、ましてや一日中フジテレビしか見ない人なんていないだろう。

韓国偏重となっている放送内容に対してその偏りを多くの人が指摘しているのであれば、それが既に抑止力として働いているのだし、それ以上危惧するようなことが本当にあるのだろうか。ぼくは少なくとも「オカシイ」という感覚自体が正常に発動していることについては疑問を持たないけれど、放送内容にまで視聴者が言及するに及んでは、「俺じゃない、国民がそう言っているんだ」と言ってのける政治家の粗悪な論理のすり替えに似た醜さを感じる。

どこかの国みたいに国営放送しかニュースソースがなくて、その内容が国粋主義一辺倒で、しかも誰もそれに疑問を持たないということであればデモでも何でもやってこの由々しき事態を打破すべきだろう。しかしそういう話ではない。多チャンネル時代を標榜する日本という国の、数ある民間放送の中のたかだか一社の話ではないか。外国人株主比率のこともよく併記されるけど、その「外国人」とやらは韓国政府だったりするのだろうか。とにかく、まったくもってロジカルとは言いがたい言辞が弄される場面が目について仕方がない。見なければ良い? よろしい、これについてはもう口をつぐもう。

繰り返しになるけれど、ぼくは一択という態度が信頼できないのである。彼らの曇りなき眼が排除の論理を付き従えていて、恐怖するのである。わが町の原子力発電所が日本の製造業の高まる電力需要に応えてきたのだと胸を張る町長を、ぼくたちは笑えるのか? 電線の下を通るときには扇で頭をさえぎったという明治の人々を、同じように高圧電線の下に住むと癌になると信じてしまうぼくたちは笑えるのか? 「冬のソナタ」ブームの時に、隣国のドラマの中に古き良き日本の倫理観道徳観を深読みした評論家を笑えるか? 日韓ワールドカップ開催で青いTシャツを着て熱狂していたのは誰だったのか? 100年とは言わないが、少なくとも昨日今日生まれたわけではないのなら、自分の中にある歴史性についてもっと批判的な視線を向けるべきなんじゃないのか?

ソンタグの言う「自己検閲」。今の日本はたぶん、「それは言いっこなしね」という言葉の囲い込みがものすごい勢いで拡充している。「なんだかんだ言っても原発はやっぱり必要でしょ?」「韓国ドラマって日本の形骸化したトレンディドラマよりもよっぽど訴求力があるよね」なんてことを(ぼく自身の本意じゃないですよ)言えない、封じられている状況で「脱原発」なんて言ったってなんの意味も内容もないのだ。発話とは賭けだ。リスクを負わない言葉なんて、誰の心にも響かないのだ。