村上春樹『1Q84』BOOK3

を読みました。

以前のエントリー
にも書いたとおり、この作品は過去の村上作品の総仕上げという感想は変わりません。ただ今回はそのことに対する期待が「新たな方向性が示されるのか?」という、ある意味では読者のエゴに絡め取られて空振りを食らう、というのが正直な反応ではないでしょうか。アマゾンのレヴューを読んでいても、そういう感想が多いようです(青豆さんのキャラは村上作品の女性の中では高評価のようですけどね)。

緻密な文体は、既に示された「入り口を遡上する」という結末に向けてもどかしいくらいに丁寧に物語を進めていきます。『ハードボイルドワンダーランド』や『アフターダーク』との類似はきっとまたいろいろな人が正確に指摘してくれるでしょうからここでは書きませんが、やはり既視感のある結末、展開。

もちろんそれが良い悪いというのは読み手の問題であるし、作者は同じ主題をこれでもかというくらいに変奏させて作品を発表してきた経緯もあるので一概にそのことを云々することはできないけれど、やはりそれでも過去の作品を丹念に追ってきた読者にとっては物足りなさが残るというのは正直なところでしょう。

BOOK2を読み終えてBOOK3の予感はしましたが、BOOK3を読み終えてBOOK4の予感はしない。そこでBOOK4が企画されるなら(あるいはそれに代替するなにかが発表されるなら)そこで初めてぼくたちは新鮮な驚きを得られるような気がします。何度も繰り返すようですが、これは読者の問題ではあるのですが・・・。


忙しい朝からすべては始まるRie fu

Rie fu『at Rie sessions』を聴きました。

ぼくにとっては新譜が出るたびに必ず購入するアーティストの一人です。今作は様々なアーティストとのセッションをベースにしたアルバム。リード曲にリリーフランキーと山本モナが登場するのが???という感じではありますが、これ以外の曲は良い意味で相変わらずこの作者の持ち味を存分に聴かせてくれています。

思うに、Rie fuの楽曲の中で際だつのが日々の小さなストレスをうまくポップな曲調に乗せて異化してくれる、その救済。いつまで続くのかわからないこんな毎日が今日も始まる、けれど今日という一日を少しでも楽しく過ごせますように──という願いが、言葉そのものではなくて描き出される朝の光景や具体的なアイテムのはしばしから感じられる。そしてそれは例えば都会派OLエビちゃんの一日みたいなあり得ないフィクションではなくて、地に足付いた生活の匂いがきっちりと練り込まれている。

そうなのだ、この人は朝を描くのがすごく上手い。

振り返るということを前提としないならば人生はいつでも朝から始まる。人生は今日という一日を過ごすということの積み重ねだからだ。そこから始まるあらゆる可能性を秘めた(これは悪いことも時には起きるという意味も含めてだけど)時間に立ち向かって行こうという気持ちを引き起こしてくれる。その、ミニマルから大きいところへの抜けて行き方がRie fuはいつも、すごく上手い。


祖父他界

別れ際に、普段口数の少ない叔父は「あっけないもんだな」と言った。長い長い三日間だった。確かにまだいる、と感じられていたのが、あの一瞬で「かつてあった」に召還されてしまう。一時間も待っていなかったと思う。どれだけの火力だったのか、そればかり思いやられ、そしてその力の前に、残った者は、それを目の前にした者たちは現実に追いついていくのがやっとだった。かえって助かる事務的な制服姿の男が壺の中へ入れていく。本当に、あの小さな容積の中に人は入ってしまうのだと驚かされる。それだにさえ、目の前で見えているものが心にまで届くのに多くの時間を要する(過去形ではない)。感情が追いついてきたときには、すべては終わっている。それが儀式というもののありがたみなのかもしれない。それが儀式というものの存在意義なのかもしれない、良いにせよ悪いにせよ。

もうあの声は聞かれない。私が何をしてやれたというのか。一個の人間として立派にやっていく姿を見せてやれたというのか。普通に社会でやっていく姿を、表現して、伝えようとしたのだろうか。断じて、否である。人は生きてさえあればいいのではない。人はそのことを伝えなければならない。言葉も通じなくなったとしても、どうしてお前は伝えようとしなかったのか。逃げてばかりいた。距離と時間のせいにばかりしていた。それでも、どうしようもないことはあるし、どんなに最善を尽くしてもかなわないことは世の中にたくさんある。実際、そういうことはある。それでもなお、届くと信じずに発せられたメッセージがあったろうか。届くと信じるからこそ、人は、なにかを伝えようとするんじゃないのか。

空っぽの犬小屋。枯れた盆栽。扉の開かれない書斎。主を失った安楽椅子。まだ届く郵便物。

そして残された不甲斐ない自分という存在。まだ生きてある、「私」。

「私」は何も残せないかもしれない。それかが怖さからまた生き続ける。その恐怖と戦う。同じことをまたしてしまうかもしれない。同じことはまためぐってくるはずだろうから。あるいは、自分が──。この世でのすべての修行を終えたときに仏はあの世へ戻ってもよしと許しを与える。本当にそうだね、と言い合った。参列者の数の多さを言うのではない。一番よくわかっているのは私たちだから。まだまだたくさんの宿題がある。それは答えをすぐに出すべきものではない。けれど日々、答えを出していかなければならない。出し続けていかなければならない。