実益と実効

過去の自分自身じゃなくて、過去の自分が目指していたものをもう一度見るようにしないと。今の自分が見ようとしているものはそれとすっかり変わってしまったのだろうか? たぶん、そうなのだろう。変化は時に肯定されるが、時に否定される。変わらないことも勇気。

12時起床。半日本を読んで過ごす。下らないビジネス書や人間関係の本や読んでいると、頭の中が本当に疲弊してくる。これは古典を読み解いていったときの疲労とはまるで違っている。なぜこんなにも「今のままじゃいけない」と責め立ててくるのか。そう感じる自分が弱っているのか、それも否めないけれど。同じ言葉や主張が繰り返される。そもそもこれは本を読んで解決される問題ではない。けれどぼくは世界に向かって質問し続ける。どうしたらいいのか? どうしたらいいのか? もう少し、頭の中のおしゃべりたちを沈めよう。答えはきっと、ぼくの知らない外の世界にある、なんてのは幻想だってことにいい加減気づくべきだ。

実益と実効とは違う。そう意識すれば、もう少しマシな頭になるかもしれない。こういうときこそ欲張りになってはいけないと思う。がつがつして消化不良になるなら、なにもしない方がマシだ(っていうことわざがちゃんとあるじゃないか!)。


限定されているのは。

あっという間の日曜日の午後。AM四時就寝、PM二時起床。入浴。煙草を吸いながら。

バランスがきしみ始めている。シーソーの両側に交互にめちゃくちゃ重たいものを次々乗せられていく感じ。求められているものと求めているものとのGAP。否、しかしいつ何をぼくが「求めた」というのか? 求めていないということと、求められているということとのGAP。書いていてあきれるほどにレベルの低い状態だ。ロールプレイの変化、ロールモデルの変化……ロールモデルは変化していない。それはあった。いよいよそれとのGAPを迫られているわけだ。

それでも、とこだわるのはそれが会社での出来事に限定されるためか。「限定される」と言いながら、一体ぼくたちは会社に人生のどれくらいをあずけているのか、時間的にも精神的にも体力的にも。限定されているのは生活のほうじゃないのか。分水嶺はどこにある? 乗換駅はどこにある? 聖域は何によって守られている? それが「金」だとしたらあまりにも皮肉な話だ。


今が過去にならないと理解できないもの

一時退社。夕食すき屋。一時半風呂。コンビニでなにか買って帰るより時間ロスは少ない気がする。

今日はとにかく眠たかった。びっくりするくらい眠たかった。「顔が疲れている」と言われた。確かに。でもそれでなにかがどうなるわけでもない。

あとで言い訳したくないために遅くまで残っていることもある。あの時もっとがんばっていれば、という後悔をあとでしたくないからだ。あれだけやったのにできなかったのなら、もうそれは自分のせいではない、という逃げ道を作っておくのだ。それで疲れてしまっては、本当にバカ丸出しかもしれない。ぼくにとっては「自分のため」というのは相当に優先順位が低いつもりでいるのだけれども、単なるナルシシズムの裏っ返しかもしれない。自覚することは難しいのだけれど。

理解はちょっとずつしか進むことはできない。それは物事に対してもそうなのだろうけれど、人間に対してもそうなんだと思う。どこかにブレイクスルーがある。どこかで線の傾きが急上昇する地点があるはず。そう思うことでしか時間をかけることに対する勇気を持つことはできない。時間をかけさえすればいいのだ、という開き直りではなく、一日一日の一歩一歩を感じながら生きてみたい。なんて、それはたぶん今が過去にならないと感じられないのかも。

過去は、克服すべきものではなくて、常にすでにそれはもう克服されてきたもののの集積だ。


優しさと、違う種類の緊張と

一時半退社。夕食すき屋。二時風呂。二月に入って急に寒くなる。水っぽいので鹿島は雪にはならないだろう。会社に入った初年度だけ降った記憶があるけれど、それ以来は気候の変化が派手な土地ではない。

正直なところ10連勤目。インフルエンザで一週間出勤停止を食らったのが痛かったのだけれど、もうさすがに一週間以上も経つと魔法の言葉ではなくなってくる。そうは言っても先週は突発の仕事が入ったりして、それもやっと今日一段落したのでインフル明け、本格化しなければならないのはやっぱり今日からなのだ。

わかっていても、なかなか進められない。わからないことが多すぎる。ひとつひとつにすごく時間がかかる質なので、時間をかけなければならない。けれど時間は有限だ。どんなに土日出勤したって有限だし、〆切は刻々と迫ってくる。迫ってくるのに以来すらしていない状況が続いている。明日こそ明日こそと思いながら目の前の忙しさに追い回されてしまう。

あと個人的には諸刃の剣なのだけれど、優しすぎて怒れないことが多い。というか、とりあえず自分のせいだと思ってしまう。依頼しても、相手が今さらのようなことを言ってこられても依頼の仕方が悪かったのかなとか、メールじゃなくてちゃんと口で言えばよかったのかとか、みんな集めてじゃなくて相手の目を見て一対一で言えばよかったのかとか、いろいろと考えてしまう。でも、それでも伝わらないことは多い。そしてちゃんとそれは自分に跳ね返ってくる。ちゃんと叱れるようになれればよいのだけれど、自分のこともちゃんとできていないのになかなか言えない。どんな人とでも対等でありたいと思うし、相手からもそう思われたい。でもそれはやっぱり幻想なのかな。会社というところは残念ながら、人間対人間ではなくて、立場対立場が人間関係の基本だからだ。もう五年も働いているのに、そのことになかなかなじむことができない。それを当たり前だと思っている人よりはマシだと密かに思ったりもするけれど、それでなにかが救われるわけではない。

それにしても疲れた……ここから二ヶ月が本当に勝負の期間です。最近、疲労の質が確実に変わってきた気がする。集中してなにかを成し遂げたときの緊張感ではなくて、常にアンテナを張って周りの動向を気にしていなければならない緊張感だ。本当に、一日一日ヘトヘトになる。


テレビを消して生活の音に耳を澄ませ

ここ数ヶ月、全く更新ができずにいた。はっきり言って仕事が急に忙しくなった……という言い方は、本当は不正確で、その密度が劇的に増した、というのが本来のような気がする。自分について語るということがとことん怖くなった。文字にした途端、とんでもなく醜いものが噴出してきそうで、何度か紙にペンで書き出したりもしたのだけど、その頃に書いたものは今の自分の気持ちとはだいぶ違うものになってしまったのでもう反故としよう。つまりは、ぼくの中でなにかが大きく変化した、ということなのだ。

それはあまり人に伝えても仕方のないことなので(その変化は義務感とか必要性とか、そういうレベルの低いことによるものでは決して無く)あらためてブログ等という公の場所に書き記すことはしない。

「しない」、と書いてしまうところがまたぼくの甘いところであることは重々承知しているけれど、少なくともこの第三パラグラーフまで読み進めてしまったあなたはぼくの性格もよくご存じのことだと思う。ご賢察を期待する。

さて、そういうわけで少しは自分について書く、ということに勇気を持てるまでに「回復」したのだがすでに日曜日の深夜、というか月曜日の朝を迎えるまで数時間を残した時間帯である。そんな中でも松浦弥太郎の新著『あたらしいあたりまえ。』、よしもとばなな『ごはんのことばかり100話とちょっと』を読み終えて気持ちは少しだけ落ち着いている。きれいな言葉たちは時に「文学」という俎上に乗せられると「表面的」という批判を受け取る。けれど「生活」という俎上に乗せれば確実にぼくたちを救ってくれるのだ。少なくとも、よしもとばななの著書はそうやって読まれるべきものだと思う。『N・P』も久しぶりに再読。夏という季節の持つどうしようもない事件性、きらめき、命の躍動みたいなものがびしびし伝わってくる。『新潮』二月号に掲載された王国シリーズの完結編「アナザー・ワールド」も、とても楽しい時間を提供してくれた。「王国」シリーズあたりから著者はどんどん説教くさくなっているけれど、それが好きなのです。

閑話休題、こうやって好きなものについて書けるという時間はやっぱり必要だ。生きていれば悩んだり、苦しみもがいたりすることは多い。そんな中で静かな部屋でキーボードを打ち続けるというのは、もしかしたらぼくの原風景なのかもしれない。パソコン一台あればいつだってそこに戻ってこられる。裏切るものはない。ぼく一人を置いて変化していくものはない。危険なことを言っているかもしれない。けれど衒わずに、真摯に、そういう時間と場所と状況を大事にすることは本当に生きていくことが重たくなったときに救ってくれる。たった一人で充足することができる技術は、大人になってからこそ大切なのかもしれない。だって、人は人を本当に救うことなんてできないと思うから。人は、自分を守ることで精一杯のはずだから。

だからテレビを消して、耳を澄ます。自分の一挙手一投足が世界に対して何を働きかけているのかに耳を澄ませる。自分がここにいて何をしているのかを自分で精一杯受け止める。映画の中にいるかのような自分を認める。

そうやって明日からもがんばっていきたい。