【小説】ノブレス・オブリージュ〈第五章〉

     五 帝王学

 間もなく、持っていた期限切れの学生証から彼女が本当に熊谷磨理であるということがわかると、磨理はパトロールカーに乗せられて原宿署に移された。車で移動するほどの距離ではなかったが、生まれて初めて乗ったその後部座席のクッションの硬さに、あるいはスモークも張られていないために信号で車が止まるたびに横断歩道を行く歩行者からちらちらと視線を投げ込まれるそのいたたまれ無さに、自分が何かとんでもない犯罪を犯してしまったような気持ちにさせられる。
「ここんところ、代々木の駅近くで君に似た人間の目撃情報がたくさんあってね。いろいろと出回ったんだけど、やっと見つけた」
「私、どうなるんですか?」
「まあ、今日は署に泊まってもらって明日お母さんにでも迎えに来てもらおうか」
「やらなくちゃいけないことがあるんです」
「お母さんに謝る方が先だ。それよりも優先されるものなんて、この世の中にはないよ」
 若い警察官はまるで学校の教師のように自分の言葉を大事そうに一音一音明瞭に言う。なおも磨理はパーティーへ行けないこと、圭史を駅で待ちぼうけを食らわせてしまうことに気をとがめていた。彼女の手の中にはポートフォリオに変わって、自分の第一作となるべき漫画のネームが仕上がって収まっている。
「携帯電話、使ってもいいですか?」
「今はダメだ。誰かに連絡を取るのは私たちの役目だから。それとも、本当にそうするかい? 駅で誰かと待ち合わせていたみたいだけど」
 警察から直接連絡が行くことで相手を動揺させることの方がまだましだと磨理は考えてもみたが、連絡をするにせよしないにせよ迷惑をかけてしまうことには変わりなかった。それならば彼の前からはもう姿を消し、最初から無かったことにしてもらった方がかえって良いかもしれないとも考えた。これは何かの間違いで、長く短い夢を見ていた。……
「いえ、いいです。あとで自分で何とかします」
 明治通りの前方にはNTTドコモの代々木ビルが見えている。ここ数日新宿駅の周囲をあてもなく歩き続けた。そのいつでも、あの尖塔が見える方向で迷子にならずにすんだ。何となく磨理はその建物に愛着を感じ始めていた。だが車は急に狭い隘路へと方向を変え、磨理の視界にはなじみのない世界が飛び込んでくる。建物の脇にはびっしりと警察車両が縦列駐車されている。そしてその中の空いている一画に車両は静かに止まった。

 珍しくパトカーとすれ違った東山圭史は不審気な顔をしてそれを見送ったが、千駄ヶ谷の駅についてもそこに誰一人熊谷磨理とおぼしき人物がいないのを見るにつけ、いよいよ彼女の身に何か事故があったのではないかという予感にさらされる。彼はその場で彼女の携帯電話に幾度かかけてみたが「電源が入っていないか電波の届かないところに……」という録音が流れるだけだった。交番にも顔を出してみたがもぬけの空だ。よくわからないが何か一杯食わされたのか? それとも本当に彼女はいなくなった? この状況をどう判断して良いかわからず、とりあえずもう一度改札の所まで戻ってきたとき、彼は自分の名前を呼ばれるのを聞いた。
「圭史!」
 顔を上げればクラスメイトである篠田有と日下部美佳とが改札口から出てきたところだった。
「なんだ、駅まで迎えに来てくれてたの? で、お出迎えのハイヤーはどこだい?」
「いや、すぐそこだから歩きだ」
「誰も本気でそんなこと言ってないよ」
 いつもの調子で二人は言葉を交わす。けれど相手の顔になにやら心ここにあらずの影を有はすぐに見抜く。
「誰か待っていたのか?」
「いや、待っていたと言えば待っていたんだが……」
「あっ、女の子か。なるほどなるほど」
「いや、ううん。そうなんだけど、そういうんじゃないよ」
 圭史はそう言いながら歩き出す。
「待ってなくていいの?」
 今度は美佳が驚いて声をかけた。
「いや、いい。とりあえずもういいんだ」
 三人は互いに妙に居心地の悪い感情を抱かせあいながら歩き始めた。

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