小畑友紀『僕等がいた』13巻

なんにでも言えることかもしれないけれど、一番傷ついているはずの人がぜんぜん描かれていないといらだちを覚えます。その意味で、この13巻は12巻で見せた山本妹の底抜けの寂しさがページ割かれてなくて若干無念(個人的な思いかもしれないけど)。

しかし様々な再会という「物語」へ持って行ってしまったのはさらに残念。その時点で、もう「再会」というコノテーションに絡み取られてしまう。それをもっともっと裏切った回答がほしい、と思ってしまうのは読者のわがままか。今後「砂時計」のようなパターンに持ち込まれるとしたら、この作品は結局凡庸な「少女漫画」の仲間入りをしてしまう。

「主人公」は描かれなくてもきっと「主人公」なのです。わざわざ小説や物語や漫画を描くということは、それを乗り越えるなにかが、乗り越えなければならないなにかがあるから意義のある話なのであって、誰かも書いていたけれど一生涯を幸福に過ごした人間の小説を書いてもそれは誰にも読まれることはないのです。

お金かもしれない、人知れぬ努力かもしれない、そういうのがなければどうにも自分の人生の主人公になれない人達の姿を見たくて人はページをめくる。それは決して自分より不幸な人間を見出して、その逆照射によって安心したがるメンタリティとは一線を画しているはず。

……と、思いません?


少女漫画が好きだ!

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恒例の三冊まとめてレビューです。

☆岩本ナオ『雨無村役場産業課兼観光係』第2巻

これまた飽きさせない、裏切らない漫画家さんです。「なんにもない」と思われがちな田舎、そして観光名所として盛り上げようとしている桜の大木にも由来がない──けれど、なくてもいいじゃないか、あるいは「みんなの大切なものばかりじゃないか」と悟っていく主人公銀一郎の心の動きは、村に住む他の人びととの関わり合いの中で確実に育っていっている。その有様が、読み進めていくとだんだんリアルなのかノスタルジーなのかわからなくなってくる。「揺らぎ」のあるストーリーテリング。

一方でメグの恋愛はうまくはいっていない。「女は三竿さんみたいに美人でやせてるほうがいいよ」とつぶやく遠景は、こっちまで泣けてくる。けっこうひねくれていながら、舞台が好きだったりする、その一瞬見せる「好きなものは無条件に好き」というキャラクター設定が実に上手い。人間関係の濃密な田舎で大人でいなければならない場面も多い中で、少女性を宿し続ける姿が、決して「普通の」少女漫画ではヒロインになれないメグを引き立たせているように思う。

併録の「しだいに明るむ君の暁」も秀逸。終盤でガーゼがはがれる場面は本当に驚く。ぜんぜん読めてなかったじゃないか、と猛省に駆られる。それはたぶん、結局自分もまわりでぎゃあぎゃあさわいでいるだけで苦しんでいる当人の心の中なんてぜんぜん想像できていなかった後味の悪さ。でも、そうではなくて、たぶん、主人公の友達たちは精一杯気を使っている。それでもなお、というところか。だからこそ胸をかきむしられるのか。

岩本ナオはもはや文学です……。惜しみないくらい私は絶賛します。

☆西炯子『娚の一生』第2巻

第1巻は今から思えば初老の大学教授と30代半ばのドロップアウトキャリアウーマンが一つ屋根の下に住むという状況設定の不自然さを消火して回るのに忙しかったように思いますが、第2巻になってようやく二人の物語が始まります。子どもを使うのはあこぎな展開かもしれないですがきっちりドラマに仕立ててくれているのは作者の力量を物語っていると思います。

話変わりますがここんとこ本家マーガレット系はジャケ買いでとんでもなくハズレが続き、一方で上記2作といい「坂道のアポロン」といいフラワーは裏切らないなあと…「小学六年生」だのなんだの休刊だけど小学館がんばれ。

☆いくえみ綾『潔く柔く』第11巻

いよいよ頂上決戦の模様です。カンナと禄。似たような過去を背負った二人がだんだんそのことに気がついていく。

ひとつ違えば
私も違う言葉を返す
少しずつズレが出来て
前とは違う道になる
そこからさらに枝分かれして
ちがう未来になる……

カンナのこのモノローグが全てを語っているような気がします。もちろん禄は違う角度からこの言葉に返歌を送る。この二人の応酬が「罪悪感」というキーワードを軸にどうぶれていくかが見物。

個人的には清正(一恵とはまだつきあっているのかな?)だの朝美だのをこの期に及んで登場させるのはどうかなあ……という気がしないでもないですが(作中でも「何この同窓会状態」と言及されてるけど)、今後どう動くかな──朝美が来るとなると修羅場が再燃しそうだが……高校卒業後って朝美とカンナのつながりってぷっつり切れてますよね。

さてさて長いエントリーとなってしまいましたが、皆様もぜひぜひ素晴らしい漫画ライフを。近刊はついに復活の『僕等がいた』と岩本ナオの天狗の子最新刊ですね!


【小説】球体の展開図

 私には全てがわかった気がした。あの人は最後にこう言った、きっとあらゆるものはなにかと引き替えなのだよ、と。長い道のりを経て、そう感じたことを私はとても強く、痛くさえ感じた。
 眠れない夜が続いて、私の体力も精神力もへとへとになっていた。電話がかかってきた。そこまではおぼえている。もう少しで空は明るみを取り戻そうとしている時間だった。
「ねえ、そうやって狭い部屋の中をあっちこっち歩き回っていないで、座って考えてごらんよ」
 古くて長い映画のエンドロールを部屋のテレビは流している。あれ? この場面って、さっきも見ていた気がしたけれど一巡りしてしまったのかしら?
「同じCDばかり聞いていていると他のものが聞けなくなることがあるもんだ。君はもう君の物語の中にどっぷりつかってしまって、そこからはみ出そうとするものを拒絶し始めているんだ。でもそれは一瞬の出来事だよ。物事には順番てものがあるんだ。ここを乗り越えれば君は、そうだな……強くなる、とでも言っておこうか」
「うるさい、私は明日死ぬ」
 少しもそんなことなんて考えていないのに私は頭を抱えながら、叫ぶ。そのひょうしに手に持っていた携帯電話はいきおいをつけて落ち、床をすべって私の部屋の入り口のところで止まった。液晶画面のほのかな明かりが今この小さな空間を満たす全ての光源。

その愚かさは引きずっていかなければならない……。

オールドボーイ・ミーツ・オールドガール、だよ。

 性未分化な「ぼく」は多少は女の子の萌芽を感じられる「きみ」に恋をする。それはきわめて観念的なものだ。けれど子どものリアルさはそこにはない。きっと「ぼく」は宇宙的な諦念を引き連れた男たちや女たちの行き着く先なのかもしれない。それは思春期を通過する時に一瞬、窓外をよぎる影。けれどその列車は大人たちが仮想したものだったのに違いない。物語を紡ぐことでお金を儲けようとしている大人たちの手によって、巧妙に仕組まれた罠だったに違いない。けれど罠にかかったのは想定外にも、大人になり損ねたdead bodyたちだった。「ぼく」に漂着した瞬く間に「きみ」は浮かび上がる、オートマチックに。そこはとても居心地がよいのだろう。かつて見過ごした景色は今度ははっきりと形を持って眼前に現れる。それからは自動生成的に「ぼく」の宇宙は、いやそれこそ宇宙のように無限に広がり続ける。「きみ」の変奏は限りなく繰り返される。「ぼく」は大人たちのかつてでは決してない。かつて、であったかのようなものだ。巧みに偽装したノスタルジーだ。でもいいよ、それはわかっている、なり損ねた大人たちは口々に言う。子供だましっていうけど、だまされている子どもなんていやしないよ、子供だましっていうのは子供だましにだまされているフリをしている子どもたちにまんまとだまされている大人たち──もまた、それを知ってていたとしたら? 子供だましっていう共犯。でもさ、だまされている方が心地いいものなんだ。

私は口早にそういい返す。

オールドボーイ・ミーツ・オールドガール、だよ。

どういう意味? ああ、「ぼく」と「きみ」の話ね。

 私はもう一度狭く暗い部屋を見渡す。携帯が鳴ったのはそのときだ。私は誰と話をしていたのだろう? 私の頭の中で誰かが勝手にしゃべっているの?
「もしもし? もしもし、もしもし!」
 違う違う違う、ちがうってば。携帯電話が鳴ったと思ったのは気のせいだった。私はのけぞってさっきとなんにも変わらない液晶画面を見て叫び出しそうになる。さっきは本当に叫んだのに、何演技してんの、私。私はそんなに誰かからの連絡を待っているのかな。そんなにも誰かとおしゃべりしたいのかな。誰かにわかってほしい「構ってちゃん」なのかな──なーんて、そんな私を作ってみてそんな妄想してるそんな私がなによりも大好き。

 エンドロールが終わった。映倫のマークが出て、画面は本当に真っ暗になった。そして唐突に映画の中に出てきた字幕を思い出す。「僕は君で、君は僕なんだ」って、なにそれっ! そんなこと言ったら私の理論が崩壊しちゃう。

 「きみ」なんて最初からいなかったの? 追憶の中の「きみ」はきっと誰かの助けを求めている。そして「ぼく」はその誰かになることは出来ない。それはわかっている。むしろその無力感が「ぼく」の全てだ。無力な「ぼく」を定義づけるために「きみ」は出現したに違いない。

「なぜならきみは、かつてのぼくだからだ」

 昨日までのぼくだったらきったない小動物の出そうなバーにでも行くところだが、あいにく1980年12月8日生まれのぼくにはそんなコノテーションは小さなポケットに持ち合わせていない。兌換不可能性。ぼくはついに「われわれ」と一線を画しその足で歩き始める。といって行く先があるわけではない。さながらジョン・レノンを射殺した犯人捜しとでもいったところか。いや、この比喩は案外「ぼく」を形容するにふさわしいかもしれない。
 それでももうすぐ三十歳になってしまうぼくは自己表現だの自己実現だの言っていられなくなり、まあ元々会社員ではあるのだけれど三十歳の誕生日を境に犯人捜しをやめて仕事に身を入れようと思い立った。今のところその期限まで半年ある。
 少し、──しゃべりすぎたみたいだ。この少ないパラグラフで「ぼく」についての紹介を詰め込みすぎたかもしれない。けれどここからはゆっくり行こう。

ぼくは、きみに、話しかける。
 
 この時間が永遠に続けばいいと思った。きみがいて、色や形や声の響きやそういうのがあるっていうのが実はすごく救いになることに、ぼくははじめて気がついた。目に見えないものと戦っていると、なんにも見えなくなるんだ、ときどき。そうだ、現実ってやつは、いったいどこにあるんだ? いや、この問い方は実に凡庸だ。「現実」なんて言葉を持ち出してはいけない。それは色や形や響きを持っている。そう言えば充分じゃないか。

「私」は死にたがっている。死にたい死にたいと毎日心の中で念じている。「私」は「私」を殺せるか? 「私」のないところになにが残るか? 退歩、を旨とせよ──と、治療薬は言う。怠惰こそ「私」を殺すために必要なものだ。

同じ場所、同じ時間というのは再現不可能だ。そこに挑むことこそが書記の現場だ。そして現実というものはぼくの相手ではない。そもそもがかなわぬ相手だ。リアリズム? 本当らしく書くことがどれほど意味があるのか。読者よ、本当らしさは現実の嘘くささに負けるべきなのだ。

ある作家は、その日記の人称を常に「おまえ」と書き続


蟄居

 事務系の同期が私を残してみんな東京へ異動してしまったので、私の生活も以前にも増して蟄居的性格を増している。

「蟄居」

大学に入りたての頃覚えたこの言葉に最初出会ったときの妙なすがすがしさは今でも覚えている。「蟄」という漢字の姿が持つ妙な説得力。出自を漢和辞典でひもとくことはしないが、まさに足を折り曲げて虫のようにじっとしている。そしてどこか、ザムザ氏のようなユーモアが付きまとう。

逃げるようにして万巻の書に立ち向かうが、あるいは、mixiの「ソーシャル・ライブラリー」なる読書記録システムに読了した書名を書き連ねているが、それもあまりの自分の無節操ぶりを改めて目の前に開陳されるようで近頃はムカムカしたりもしている。一体ひと月に30冊読み飛ばす生活をここ五年近くやって、なにか得たものがあるのかと。いや、なにか得なければならないという思考こそが批判されるべきと言えば首肯する他無いのだが……。

一方で、私は自分の行く末だとか幸福だとかそういうものについて考えることからも逃げている。考えても仕方のないことだからだ。何週間かブログシステムの移行で、書いても表に出す能わざる日々を過ごしたが特に焦りもなかった。今のところはもう、考えても仕方のないことを考えて書き連ねることに興味がない。

しかし「興味がない」と言表することにどこか甘さを感じることも事実で、私は思いっきり悩んで思いっきり筆を振るいたい欲求もある。それは形式的な話かもしれない。頭のフル回転に手が追いつかないでいた頃を本当になつかしく思う。

仕事は順調である。時間と手間を惜しみさえしなければどうにかやっていけることを私はすでに知ってしまっている。そして私は仕事に対するロマンとかイメージとかそういうのをすっかり捨ててしまっている。

社会に出て働くということは、自己実現のためではありません。自己実現のためと思っていると、いつの間にかまわりから人がいなくなります。
自分の能力を他に還元する、という人類の本質的な欲望が、働くということです。
──よしもとばなな『人生って?』

心ある作家の言葉はそれこそ万巻のビジネス書を無化するほどの威力で私の心に突き刺さってくる。読書の効率なんてことは言いたくないけれど、私に必要なのは成功者の演繹的な自叙伝ではなく小説家や哲学者の言葉であり、メソッドではなくアプローチである。

やるべきことはたくさんある。

それをひとつひとつ丁寧に言祝いでいくことだ。


青山七恵『かけら』

芥川賞受賞作以来の青山七恵体験でしたが、表題作も含め「久しぶりに小説らしい小説を読んだ!」というような、ちょっと懐かしい感じの読後感。

たまたま父親と二人で日帰りのサクランボ狩りに出かけた女子大生の一日を描いたもの。いつも家で見ているのとは違う父親の姿を見るたびに(それは本当に本当に些細な差異だったりするのだけれど)心が騒いでいく様を丁寧に描いています。読者はそれにつられてどうもこの父親の枯れっぷりを小津映画なんかと同一視してしまいます。

「桐子、お父さんに難しさを感じていたのか? お父さんはむしろ簡単だぞ」
「だってぜんぜん芯がないんだもん。気骨とか、覇気とか、ぜんぜん」
「おまえ、そういうのを求めてたのか」
 部屋着に着替えた父が居間に入ってきて、乾いた足音をさせてわたしたちの横を通り、台所に抜けて行った。
「求めてなかった」
 答えると、兄はすぐさま興味を失って、雑誌に目を落とした。

帰ってきてからの兄との会話でこの思い込みはひっくり返されます。父親対して違和感を感じていたのが、父親に違和感を感じていることにむしろ違和感を感じさせる。このあたりの展開が上手い。

三編の短編が収められていますが、「欅の部屋」も良い。結婚とは恋愛の終わりなのか? 過去の恋人のことを思い出しながらも自身の結婚へ着実に歩んでいく男性の心の揺れ動き。

小説とは共感を求めるものではない。自分を確認する作業ではない。心の新しい動きを読み取ることによってパターン化した感情生活に揺さぶりをかける体験なのだ。そんなことを感じた。


待つべし待つべし

 DNSが切り替わるのを待つばかり。

ロリポドメインからムームーに変更しないといけないなんて聞いてなかったよー。
ブログ作ってしまったあとでドメイン変更となると工数的にはそっちの方がかかるよなあ・・・現在本家は表示エラーのままです。